ともだちのしるし
四月二十三日(金)「消えた想い」
今日も隣には白ちゃんがいる。部活に顔を出すようになってから十日が経って、今日でもう六回目の見学。二回、多くても三回も来れば、大体その後は入部するか来なくなるかなのに、入部する気配もなくて見学だけ。入部するかは分からないと言っていたけど、届けの締め切りまではあと一週間。三十日を過ぎてしまったら、部活中の部室には入れなくなるんだよ? 出来れば入部して欲しいなと思うけど、強制は出来ないし……。こんなに楽しそうにしているのにな。
その楽しげな本人は色を塗っている。私を描いたというあの絵だ。筆やパレットは部の備品を貸してあげた。絵の具は私のを。ランプブラックをこれでもかという位に出しちゃって、もう殆どなくなっちゃった。筆にドロリと付いたその色を私の髪に彩色しようとした所で、ハシッ! とその手を取った。
「ほらほら、そんなに絵の具を付けたら乾かなくなっちゃうよ。こうして水で溶いて……、はいこれ位で十分だよ」
「おねえちゃん、ありがとう」
それはそれは上手じゃない絵だけど、本当に楽しそうに塗っている。そんな白ちゃんを見ていると、私の手に握られた筆も滑らかに色を躍らせていく。自分の心を、素直に映し出せているのを感じていた。
「ねえ、おねえちゃん」
「ん? なに?」
水入れで筆を洗いながら答える。
「『白ちゃん』って言って」
カタン。
手がぶつかって水入れが揺れた。危なかったあ、危うく水を零しそうになっちゃった。
「ど、どうして? 呼ぶ時はそう呼んでるのに」
「え〜、今言ってよお〜」
「もう……」
一つ咳払いをする。体を白ちゃんの方に向けて膝に手をあてて、妙にかしこまってしまう。
「し、白ちゃん」
あ、なんか声が裏返っちゃった。
「なあに? おねえちゃん。エヘ」
少しはにかみながら小首を傾げて、上目遣いに見つめてくる。
(な、なんか可愛い……って、何なのよ! この付き合い始めのカップルみたいなやり取りは! もちろん、今までそんなやり取りした事ないけど……)
「白ちゃん、白ちゃん」
名前を呼ばれるのがよっぽど嬉しいのか、『白ちゃん』を繰り返しながら、何の踊りなのか、筆とパレットを持ったまま両手を左右に揺らしている。
「あ、ほらちょっと、じっとしててよ」
「白ちゃん、白ちゃん」
「ほら、分かったから絵を描こうよ。ね?」
「なに? おねえちゃ……」
ガタン! パシャァァァアアアアア……。
それは、ほんの一瞬の出来事だった。時間にして一秒にも満たない、たったそれだけの短い時間。
完成間近だった。深く艷(つや)やかな青い髪と、咲き誇った桜の花びらたちが春の風に舞い、散った花びらが青い髪に重なり薄化粧を施す。髪を押さえた白く繊細な指と、微かに潤んだ瞳。ほんのりと桜色を帯びた唇は僅かに開き、その年齢よりも大人しやかな雰囲気を纏わせている。汚れのない真っ白なワンピースは陽光に透けて、太ももから腰への滑らかな曲線を浮かべ、裾がはためく柔らかなラインからは風さえも見て取れる。
それは、私の想いをありのままに映し出していた。映し続ける筈だった。
今、目の前にある桜と青い髪の少女に、大量の水が覆っている。紺碧の海のような深く青い髪が、その髪を軽やかに舞わせている淡い桜が、瞳が……、唇が……、溶けて、流れて、混ざり合っていった。私の想いを全て消し去っていった……。
その水が、倒れた水入れの水だと気付くのに、それから数秒の時間が必要だった。振り向いた白ちゃんの腕が当たって、水入れが倒れたのだ。
「あ……、あぁ、あ……ご、ごめんなさい……」
消え入りそうな声に、私の身体がピクッと反応する。それまで、混ざり合うブルーとピンクに抑えられて止まっていた私の時間が、一気に流れ出す。その猛烈な流れは、身体の動きも、顔の動きも、目の動きも、そして、口から発する言葉も、私の意思では制御仕切れないまま、私の外へと噴き出した。
「いい加減にして!!」
瞬刻の後、私の意識が時間の流れと重なった。な、なに? 今、私は怒鳴ったの……? 白ちゃんに怒鳴った。感情に任せて……。自分が何と言い放ったのか、その言葉を覚えていなかった。目の前にある濡れた水彩紙と、その声に立ちすくむ白ちゃんの足だけを、私の視界が捉えていた。
「どうした!? 美胡っち!」
「美胡!?」
二つの声。その声に引き上げられるようにゆっくりと顔を上げる。あ、部長と愛華ちゃん……。他の部員も私の方を見ている。何か言っているみたいだけど、良く聞き取れない。私は椅子から立ち上がる事も出来ず、何色を塗ったのか、それがどこに塗られた色なのか、全く分からなくなってしまった、ただの汚れた水彩紙にまた目を落とす。あ、制服のスカートも濡れていたんだ。
「どうした……って、これは……」
「うわ……。これはもうダメか……美胡、大丈夫?」
「ご……、ごめん……なさい」
それまで、私の視界の隅に捉えられていた白ちゃんの足が、よろよろと下がって消えた。それから少しの後、上履きの音が駆け出して、美術室から出て行ったのが分かった。
追うつもりはなかった。追ったところでどうしたらいい? 叱責でもすれば気が晴れるの? そんな事をしても何の意味もない。だってこの絵は、私の想いは、もう元に戻らないのだから……。
「取り合えず、掃除をしよう。まな、手伝ってやってくれないか?」
「あ、はい」
色水が撒き散らされたテーブルと床を掃除していく。愛華ちゃんが手伝ってくれたけど、その間、会話らしい会話はなかった。「大丈夫?」「うん……」「描き直せそう?」「……」掃除をしていた間に交わした言葉はそれだけだった。
「……ありがとう」
「あ、うん。いいよ、気にしなくて」
白ちゃんが描いていた絵はなかった。愛華ちゃんが片付けてくれたのか、白ちゃん自身が持ち去ったのか……。分からないけど、楽しそうに笑っている私は、もういなくなっていた。
何かに引っ張られるような、それとも押されるような、おぼつかない足取りで部長の元にたどり着く。
「今日は……早退しても、いいですか?」
もう、とても筆なんて握れない。
「ああ、無理はするなよ。来週は休んでもいいから。そういう時もあるんだから」
「すみません……。失礼します……」
学校から少し離れた場所。駅へ向かう途中にある、街の幹線道路へと続く一本の路地。私は、力の入っていない足で歩いていた。左右には戸建て住宅たちの、クリーム色の外観をした同じ顔が行儀良く並んでいる。前から来る散歩中の犬が、家の門柱に鼻を寄せている。学校から駅まで歩いて十分、駅から電車で十五分。そこから家まで歩いて十五分。通学時間四十分。一年間通って見慣れたはずの風景なのに、それらはとても淋しくて、少し小さく感じた。私の心が、私にそう映し出しているのだろう。
その住宅の並びに、一箇所だけぽっかりと空間がある。愛華ちゃんが、モチーフ探しに行ったまま帰って来なかった、まつみや公園だ。戸建て三軒分の小さな公園には、入り口を挟んで右側に、ブランコと滑り台と二つ並んだベンチ。左側には花壇が広がっている。前を通る度に、花たちが心を和ませてくれていたのに、今はそう感じられなかった。