Please tell me.
「はあ」
教室を出て、エントランスのソファに腰掛ける。
先のやりとりの後の解説、それはもう最悪だった。極力僕は感情を押し殺し、望月も沈黙していた。周りの生徒は不安げだったし、他の講師も痛々しげな目で僕を見ていた。
幸いにも今のコマは指導が入っていない。帰り路につく生徒を眺めているだけだ。
時折、生徒が声をかけてくれるが、僕はけだるいぼやけた返事を返すだけだった。
「やっぱ、無理があるよな」
好きだという気持ちも抑えられず、その対象を側にバイトを続けることなんて。
今日のことは塾長の耳にも入るだろうし、望月も講師評価を改めるだろう。そうすれば、塾を辞めることになる、少なくとも望月の担当から外れるだろう。
僕にとってはそうあってくれた方が何倍もマシだ。
でも、心の片隅で彼女と離れることを悲しみ拒む自分がいることも事実だ。
「先生、大丈夫ですか?」
少し堅い声が僕の隣から聞こえた。見てみると、正面に望月が立っていた。
黙って見つめる僕と彼女。気まずい沈黙が場を包む。
「あ、うん」
躊躇いがちな返事に、彼女は反応を示さず、ただ僕を見つめていた。僕は居た堪れなくなって、近くに想い人がいる緊張に負けそうになりながら口を開いた。
「その……さっきは、」
開こうとした。
「辞めるって、辞めようとしてるって本当ですか?」
なんでそのことを、疑問に思っていると彼女は次を紡いだ。
「最近、元気がなかったのも辞めようと悩んでたからですか?」
肯定も否定もせず、ただ沈黙を重ねる僕。それに構わないとでもいうように、彼女は矢継ぎ早に言葉を重ねた。
「どうしてですか?先生は教え方も上手だし、生徒も先生を慕ってる。辞める理由はここにはないでしょう?それとも何か、別な事情があるんですか?プライベートなことでも」
プライベート、か。確かにそうだな。生徒に恋をした、これほどまでプライベートな悩みはないだろう。
「だとして、それが望月に関係がある?僕の事情は君に関係ないよ。君が誰とどんな付き合いをしていようとね」
また、だ。自分で穿り返しておいて、それで傷付いていては世話がない。バカだな、僕は。こんなにも泣きそうなのに、彼女を泣かせてしまいそうな態度を取るなんて。
ほら、彼女がどんどん悲しそうな顔をしてるじゃないか。
「私は誰とも付き合ってませんよ?先生はきっと勘違いしてます」
「……この前の土曜日、駅前で同い年くらいの男子といるところを見たんだ」
「土曜日の駅前ですか?うーん……ああ、あれはただの友達ですよ。彼もあそこで待ち合わせしてたみたいで」
本当に、彼女は恋人がいないのだろうか。少しだけ期待をかけてしまいそうになる。でもよく考えるんだ、彼女に恋人がいなくても僕の恋が叶うわけはないんだから。
「変な勘違いしないでください。男女が二人でいたからってカップルとは限りませんよ。それくらい、分かってほしいって思ったらダメですか?」
弁解している彼女はどことなく辛そうな表情をしている。
なんでそんな表情をしているのか分からないけど、そのきっかけを作ってしまったのは僕なのだと、彼女の顔を見れば見るほどに思い知らされる。
「だけど……どっちにしろ、僕が辞めるかどうかなんて、ましてやその理由なんて、望月が気にすることはないよ。君には関係ないんだ」
彼女の辛そうな顔を見るのが耐えられなくなった僕は、結局さっきの二の轍を踏むように、彼女を責めるようにまくしたてていた。
瞬間だった。
「気にします!関係あります!」
まるで怒声のようだった。彼女が叫んだはずはないのに、僕のどこかで反響する。
「先生のおかげですよ、私が成績良くなったのも、ちゃんと勉強も少しずつだけどするようになったのも。なのに、先生がいなくなっちゃうのが関係ないなんて、そんなことないです。ちゃんと私と先生は関係があるんです!」
一気に、静かに捲し立てられた言葉は、僕の深いところに降りていったようだ。だからかもしれない、僕が今こうして言ってはならない言葉を紡ごうとしているのは。
「僕はね……好きな人がいるんだよ」
唐突な僕の台詞に彼女は困惑しているようだ。確かに、彼女の求める答えではあるのだが、やはり何のことかわかるわけもない。
「だから、辞めるんだよ」
「え?好きな人がいるから、って全然分かりませんよ。そんな理由で辞めなきゃいけないなんて決まりがあるんですか」
「そうじゃないよ、でもそうなんだ」
「だから、それが分からないって言ってるんです」
彼女は納得していないような表情で僕を見下ろしている。
「好きになった人が、問題なんだよ」
彼女は僕の声に聞き入っているのか、それともやはり意味が分からないでいるからか、沈黙している。
「僕はね、君が好きなんだ。塾講師が塾生に恋をした、ダメだろ?」
いけない、感情的どころか泣きそうで、しかも自嘲気味な言葉が染み渡る。
「え?」
とても困った顔の彼女。こんな時ですら、彼女が可愛いと思ってしまえる僕は本当に重症だ。
「生徒のためにも、塾のためにも、そんな講師はいなくなった方がいい。だからだよ、だから、ごめんね」
後悔、それしか感じない。本当は、彼女に聞かせるつもりなどなかったのだから。
「つまり……逃げるってことですか?」
「……は?」
「塾講師と塾生だからなんて言い訳して逃げるんですか?そんなことのために辞めるんですか?くだらない」
「くだらないって、だって僕は」
「どうでもいいです。先生は私のことが好きなんでしょ?」
彼女は僕に詰め寄って、しかも驚くことに胸倉をがっしりと掴んでいる。彼女の綺麗な顔が間近にある。
「答えてください、先生」
「うん……好きだよ。僕は君が好きだ」
少しだけ、この気持ちを口にしてみたら楽になった気がする。
それだけでも救われたのかもしれない。
僕が、この塾から離れなくてはいけないとしても。僕の間違った想いが晴れなくても、それは分かっていたことなのだから。
彼女は僕の胸倉から手を離し、身なりを整えて息を吸っていた。
「……だったら教えてください」
落着いたのか、彼女は真っ直ぐ僕を見つめてそんな台詞を放ってきた。
「え?何を?」
「だから、私に恋愛を教えてください。そうしたら、先生は先生のままで私を好きでいれるでしょ」
僕の戸惑いを深めるように彼女が続ける。
「だから、塾講師の仕事をしてください。私にこれからも勉強を教えてください」
「望月……ありがとう。でもね、無理しなくて良いよ」
優しさ、だろうか。彼女なりの、少しだけ暖かくて、でも少しだけ痛い。
なんで彼女が泣きそうな顔してるんだろう。泣きたいのは僕なのに。
「僕は、君に告げられただけで満足だよ。だから、さようなら」
僕は立ち上がり歩き出そうとした。だけど、それは小さな力に遮られた。
僕の腕を掴む小さな手。弱々しくて可愛らしい手だった。
「嫌です、先生がいなくなるなんて」
「……」
「私だって、先生のことが好き……かもしれないんです」
必死で、僕の腕を掴む彼女の手は震えていた。
「分からないんです。いつも優しく教えてくれる先生が、仕事かもしれないけど私を褒めてくれる先生が」
作品名:Please tell me. 作家名:硝子匣