檸檬
俺は思う。轍はあえてこの馬鹿げた相談システムを利用したのだ。最初に無記名で出したのは演出だろう。自己満足。ただ、それだけのために。学校に帰属する理由としてそれは、至極真っ当なのかもしれないが。
「でもさあ、普通に、叫び声とか凄かったじゃん。昨日ハシオんちで見たやつ」
「馬鹿。現実とAVをごっちゃにするなよ」
「でも実際にもしあんな感じに暴れられちゃったらさ、どうすんの」
「三人もいりゃなんとかなるだろ」
「声は」
「ギャグでも噛ませば」
橋本と島田は一瞬、きょとんとした。そして、二人ほぼ同時に言った。
「笑わせてどうすんだよ」
轍はすぐに屈託のない笑みで即答した。
「寒すぎて喋りたくなくなるかも」
橋本と島田も迎合の笑いを返した。俺は今の会話に微妙なずれを感じたが、いちいちそれを訊ねて会話のテンポを乱すのも憚れる。黙っていた。
その後、授業終了まで俺達は備品の調達などに関する相談をした。話はまとまらないようで、けっこう進展した。
その後の六限目は結局台風接近によって無しとなった。轍と俺は降りしきる暴風雨の中傘もささずに、何かを叫びながら帰路を競争した。
火曜日。台風一過という言葉では追いつかないくらいの青天だった。六限目が国語だった。意外と滑舌の好い岡部による「檸檬」朗読は、食後の弛緩しきった頭にもよく馴染む。俺は聞き澄ましていた。
檸檬。梶井基次郎。この小説は好きだ。出典はすでに小学校の頃、父が持っていた日本文学大系をたまたま読んで、知っていた。初見の、あの読後の本当に檸檬をかじったような清涼感は忘れられない。文学などという言葉を当時は意識したこともなかったが、この小説は凄いのではないか、読んだ人は皆全て同じ感慨を抱くのではないかと、ただただそんな風に思った。
「一郎は、檸檬、好きだろ」
突然ぼそっと轍の言葉が降りかかり、俺は少し狼狽した。
「なんだよ、いきなり」
「いや。なんか、じっとして聞いてるから」
俺は図星を指され、照れ隠しのつもりで話題を逸らした。
「なあ、そういえば昨日さ、轍、ギャグがどうとかって言ってたじゃん。あれ、何」
「ギャグ」
「そう、ギャグ」
「ギャグはギャグでも親父ギャグだ」
「あっそ」
俺は興味のないふりをして机に腕を広げ、その上につっ伏した。
うっすら披いた視界の先に、ちょうど岡部の片脛が見えた。今日はパンストの上に靴下をはいていない。意外な細さの向こう脛が、綺麗な曲線を描いていた。檸檬。そういえばあまりに感動した小学生の俺は、一時期実際に丸善へ行って自分も爆弾を仕掛けてみたい、という野望を抱いていた。丸善が本屋だとか、その場所が行ったこともない京都だとか、そういうことは念頭になく、ただ「丸善」に「檸檬」。合言葉のように記憶し、反芻し、思い描いていた。
「はい」
突然、目の前にノートの切れ端のような紙が翳された。
顔を上げ、目を見披いてよく見ると、イラストのようなものが描いてあった。イラストは、穴だらけの球体にベルトみたいな紐がわっか状になってくっついている。
「それが、ボールギャグ。猿轡みたいなもん」
轍が言った。さるぐつわ、と反芻し、やっとその意味が脳裡に浮かんだ。しかしいまひとつ情報が足りず、それを実際に使用している姿などを思い浮かべることはできない。俺は反射的に尋ねた。
「これ、使うのか」
「いや。持ってない」
「そっか」
即答され、思わず気の抜けた返事がもれた。
「勉造さんの友達の父親が、そういうの作ってる会社の社長らしくて、まあもし使えるなら、そういうのもありかなって思ってさ」
轍が後頭部で腕を組んで言った。勉造さん。少しして、轍と俺の間だけの、北川先輩のあだ名であったことを思い出した。
「ギャグは男の浪漫だって、勉造さんが言ってたよ」
轍はそう言うと教科書の上に頬をくっつけて、寝始めた。
俺は轍がノートの切れ端に描いた男の浪漫らしき落描きを、もう一度よく眺めた。微かに楕円じみたそれはなんとなく、檸檬のように見えなくもなかった。
水曜日。放課後、俺と轍はトイレで並んで用を足しながら、昨日の深夜見た、とある外国人歌手の趣味の悪いPVについて話していた。
「最後の国旗さー、なんで中国なんだよ。意味わかんねーよな、ほんと」
「カーチェイスんとこもあきらかに手抜きだったしな」
「しかしあれ相当深夜っつーか、朝方にやってたよな。お前も見てたとはね」
「寝れなくて」
「俺も寝れなくて」
ジッパーを上げ、顔を上げると、轍と目が合った。なぜか笑みが毀れた。轍も同じようだ。アンモニア臭気の中で笑った。
「きもちわりーな」
「なあ、轍」
「なんだよ」
「いっこ聞いていい?」
「なんだよ」
「こい」
「あ?」
「恋じゃねえの?」
俺が言うと、轍はぴたりと真顔になった。そしてすぐに、怒ったような、気難しい学者のような、変な顔をした。
「くせえ」
「は?」
「くせえよ、このトイレ」
何を当たり前のことを言っているのか、俺が口を開きかけた瞬間、思い切り上履きでどつかれた。転倒しそうになり、あわてて踏み耐えた。よろついた体勢を元に戻す。
「俺までくさくなるだろうがよ。とっとと出ろ」
そう言って、轍はさっさと便所を出た。
「おい、轍」
「一朗、先行ってろ」
「は?」
「お前どうせ見張り役なんだから、先行って、ひと気ないか確認しとけ」
「つーかもう五時だし。岡部、もう中いるんじゃねえ?」
「俺達はまだミーティングが残ってんだよ。すぐ行くから、お前先行っとけ」
内心腑に落ちなかったが俺はとりあえず頷いて、生徒相談面接室へ向かった。気付いたら小走りに駆けていた。
俺は一時期、クラスの男連中から「イマイチ」と呼ばれていた。今井一朗。略して、イマイチ。実に明瞭簡潔である。これで俺がもしも、四次元に繋がるポケットだけを頼りにして生きる少年並に劣等生であったなら、イマイチというあだ名は思春期の少年の心に仄暗い傷跡でも残したのであろうが、あいにく成績は常に上の中、特に苦手とする教科もスポーツもなく、ごく模範的な生徒であった俺は、特にそのあだ名を気にすることも病むこともなく学校生活を送っていた。まあそりゃ、できればそんなあだ名、ないほうがいいけど。その程度の認識だった。
そんな折りだ。轍男は、どんなに「イマイチ」がクラスに浸透しても、一人だけ俺を一朗、と名前で呼んだ。俺は嬉しいとかいう以前に、なぜ轍は頑なに俺を名前で呼ぶのだろうか、という疑問のほうが大きかった。そして実際に俺がその疑問をなんとなく濁すと轍は、
「だって一朗は、イマイチじゃないじゃん」
と一言だけ、言った。
それ以来、俺はなんとなく轍と一緒にいる。
轍がその台詞に言葉の意味以外の何かを意図したのかどうかはわからないが、俺は単純に嬉しかった。というより、どこか擽ったいような、落ち着かない気分にさせられた。畏敬の念、みたいなものだろうか。とにかく何かが起こりそうでわくわくする。
俺にとって轍男という存在は「予感」そのものだった。
生徒指導相談室のドアを開ける直前、轍男は、見張り番を任命された俺の耳元で何か囁いた。言葉は聞き取れなかった。俺は咄嗟に轍が意味のない言葉を吐いたのだとわかった。