檸檬
橋本と島田が轍の後に続き、ドアが、俺の背後で閉まった。一瞬にして辺りに静けさが満ちた。不思議なほどの静寂だった。何も聞こえない。それは単に、俺が何も聞こうとしていないからなのだろうか。
俺は制服のポケットをまさぐった。硬い感触がある。俺は自分にあきれながらも、その硬くて丸い物体を取り出した。
ひどく、自嘲していた。
この場所に檸檬なんて持ってきてしまった自分自身に対して。それは自己嫌悪という名の、呪いに近かった。
檸檬を左手で握り締めたまま、トンネルのような廊下に目をやった。誰も、いない。視線を前方の、半分だけ開かれた窓枠に移した。まだ夕方だというのに底深い暗闇がひろがっている。檸檬を闇へ放り投げようとした。硬球を投げるポーズをして、踏みとどまる。やめた。
ドアに寄りかかった。そのままずるりと腰を落とした。背後には相変わらず不気味な静けさだけがはりついている。何も聞こえない。何も。
俺はあいている右手で、制服のベルトをゆるめ、ジッパーを下げた。触れたものは意外なほどの熱を帯びていた。俺はゆっくりとものを取り出して、握った。握り締めた。すぐに硬くなった。俺は轍男のことを考えていた。轍男はさっき俺に、言った。
恋、だよ。
聞き取れる最低限の声色だった。舌先で息を吸い込むような。流暢な日本語。或いは、限りなく無声に近い和音。
俺はすぐに切迫した。夢中で擦っていた。傾いだ肘がコツンとドアをノックした。返事は無かった。
俺は左手にあった檸檬を、齧った。苦い。ワックスの臭気が鼻腔と喉の奥を劈いた。かまわない。歯をくいこませた。歯の隙間から、微かに果汁が滲み出た瞬間、俺は達した。
ああ。すっぱい。
気が遠くなるほど、すっぱい。
俺は静寂と檸檬でいった。強烈な苦すっぱさに舌先がぴりぴり鈍磨している。呼吸を整えながら歯型のついた檸檬を見た。噛んだ所が微妙に抉れているが、黄色だった。薄暗い廊下で、まだ見事な黄金色を維持していた。
俺は自分のものの先端を指で拭って、眼前に晒した。白かった。見たこともない膣を想像し、なんとなく、舐めた。甘い。はっきりと、甘味を感じた。糖質は口の中の粘膜に残った檸檬の酸味と混ざりあい、中和して、消えた。俺は途端になぜかいたたまれない気分になった。
ほろ苦い唾がせりあがってくる。
俺は、檸檬がないと生きていけないのだ。
ぼんやりとそんなことを思い、目を綴じた。