檸檬
「放課後の集まりで、担当だったのかなんなのか、シャコタンとかにまじってなぜか毎回岡部が居たのね。で、ある日たまたま、他の委員の奴ら全員いなくて、俺は岡部と教室で二人っきりになったわけ」
轍は、相変わらず視線を教科書に向けたまま言った。
「きまづいじゃん。実際。話すこともねえし。沈黙で、かったりいなあ、いっそ便所行くふりして出てこうかなあとか思ってたら、いきなり岡部が、ねえ、アイバクって知ってる?って俺に言ったの。俺は、知りませんって言った。そしたら、広辞苑に載ってるから、調べておいで。宿題にしておくからって言われたの。で、その日はそれで終わった」
「ふーん。そんなことあったんだ。で、調べたの?」
「俺んちにも広辞苑無かったからさ、わざわざ北川先輩んちまで行って、借りたのよ広辞苑。あのくそ分厚いヤツをね。アイバクってとこみたら、矢印と、クトゥブッディーン・アイバクを調べなさい的なことが、書いてあんの。意味わかんねえじゃん?なんだよ誘導するなら最初っからアのとこに項目つくんなよとか思って、今度はクトゥ、で調べたの。そしたら」
「そしたら?」
「インドの王朝おこした武将の名前だった」
「ふーん」
「俺は次の日、わざわざ職員室まで岡部に言いに行った。調べたんですけどよく意味がわかりませんでした。インドの武将と俺と何の関係があるんですか?ってね。そしたら、あいつが言ったんだ。アイバクと、相葉君。響きが似てるよね」
轍はそれきり口を噤んだ。俺はどこか控えめに尋ねた。
「で?」
「それだけ」
轍は言って、ぱたりと教科書をたたんだ。
で?俺は再び反芻しそうになったが、こらえた。
轍は帰り際、思い出したように俺にNINの新譜を手渡した。
「いいから。聞け。とりあえず俺が帰ったらすぐ聞け」
「ああ、うん」
「あと一朗、この前メタリカ覚えたいつってたじゃん」
「うん」
「北川先輩が、メタリカのスコアブック、使うんならお前らにやってもいいって言ってたから、今度取りに行けよ」
「まじ?北川先輩ってバンドやめたの」
「いや、まだやってるらしいけど」
「今年二浪目だっけ」
「いや、三浪」
踵がつぶれかけのコンバースを履いて、轍は玄関の扉の前に立った。
「じゃあね」
「じゃあな」
カラカラと、引き戸を閉めた。数秒後、原付のモーターを吹かす音が聞こえた。夏期講習の帰り、近所にある溶接工場のゴミ捨て場で見つけた原動機付き自転車。
俺は部屋に戻ってNINのCDジャケットをぼんやりと眺め、考えた。
轍は中学生にしては洋楽に詳しい。俺はそれに便乗して、中一の頃からちょくちょく洋楽のCDを借りたり、ライブDVDを借りたり、コード進行を教えてもらったり、ライブに行ったりした。でも俺は、実は家では、ほぼ邦楽しか聞かない。それも轍が嫌悪しているJPOPと呼ばれるジャンルが嫌いではなく。特に八十年代の懐メロを敬愛し、サザンのアルバムなんて廃盤になったもの以外全て集めて持っているという始末。机の引き出しの中には、昨日買ったばかりの、消耗品的アイドルのCDが入っている。滅多に弾かないアコギも、「一週間で覚えるアコースティック・ギター」という教則本と共に今じゃすっかり押入れの肥やしだ。瑣末なことではあるが、俺はそれを轍には言えずにいる。
溜息をつき、散らかり気味の部屋を見渡した。
テーブルの上にひろげたままのレポートパッド、落書き、くしゃくしゃに丸められた数個の紙クズ、飲み残された白いティーカップのコーヒーと、エルマー。
つぎはぎの、象。
カップを盆の上に乗せ、一階に運ぼうとした瞬間、エルマーの鼻先にあった色彩がふっと眼前でちらついた。黄色い果実。檸檬だった。
「で?」
思わず呟いた。瑣末である。だからどう、ということはまったく、ないのである。
その日の五限目は、自習ということもあり教室内が忙しなく活気づいていた。外は雨だった。窓硝子越しに聳え立つどんよりとした雨雲は、教室内の惜しげもない蛍光灯の明るみを反映してか、どことなくオレンジがかって見える。燐県に台風が近づいているらしい。男子も女子も、台風といえば短縮授業、と六限目が無しになるという短絡に期待を昂ぶらせているようで、やけにテンションが高く、姦しい。俺は強くなる雨足と耳障りな雑音を交互に聞き分け、小さく欠伸をした。
「だからさ、この表見て、この表。毎週水曜が、担当なわけ」
教室二列目最後尾。轍の席に、橋本と島田が机の天板を隠すようにはりついている。轍はいつものように椅子の背もたれをロッカーまで倒して、体を前後に揺らしている。たまにガタンと大げさに椅子の足を着き、面倒くさそうに目の前の二人に説明を説く。俺はもうすでに聞いている内容なので、傍らで頬杖をつきながら、他人事のようにそれらを聞いていた。
轍が話している内容は、学生相談室の曜日替わり担当教師に関してである。うちの学校は渡り廊下を介してコの字型で学年別三棟にわかれているが、二年二棟の一階隅、身体障害の生徒が使用するホビールームの隣に、「生徒相談面接室」なる寂れた個室が設けられている。そこはその名の通り悩み事のある生徒が先生に相談を打ち明けるための部屋で、月〜金まで曜日ごとに替わる個室の担当はそのままクラス担任別にわかれ、一ヶ月おきに学年が入れ替わる。自分が話したい先生の曜日を選ぶのがセオリー、というわけだ。普通は担任が各曜日の何れかを受け持つことになっているが、その周期に大会間近の運動部顧問などと被っている場合、代役は副担任の役目となる。
我がクラス担任のシャコタンこと鳥舎浩二は、ばりばりのバスケットボール部顧問である。新人戦前の今、熱の篭もった指導はどこかのスポコン漫画を思わせる程スパルタだ、と後輩による愚痴を常々聞く。
相談時間は放課後の四時から五時四十五分の間で、相談する生徒は「学生相談申し込みカード」で一週間前までにアポをとらなければならない。カードと投函箱は職員室前に設置されていて、生徒はいちいち人目を気にしてカードを取り、それをまた投函しに行かなければならない。しかも申し込みカードは週に一度まとめて回収されるわけで、生徒のプライバシーもなにもあったものではないのだ。悩みが意中でない相手にも露見する上、こんな手間暇をかけて今日びこの使えない相談システムを利用する生徒がいるのかどうか、あやしいものである。
轍はだいたいそんなようなことを、早口で捲し立てた。これで一通り説明し終えたはずだが、橋本と島田は不明瞭な部分があるのか、あれこれ質問を投げかけている。
「つーかお前、書いたの?そのカード」
「ああ。今週の水曜、五時に予約済」
「でもばればれじゃん。それじゃ」
「馬鹿、無記名投票だよ」
俺が横から口をはさんだ。ガタン、と轍が浮かせていた椅子の前足を着く。
「名無しで出して、その後、本人に直接名乗りに行った」
「まじ?」
「何て言ってた?」
「嬉しそうな顔してたよ。こっちは悩み抱えてるっていうのに」
轍はまるで自分が本当にそうだとでも言うように、顔を顰めた。