永遠のフィルター
木造でどことなく木の温かさを感じるようにデザインされているらしい四階までの校舎と違い、階段だけしかないこのブロックは、どことなく寒々しい。狭く閉じられているせいか、より足音がはっきりと聞こえる気がした。屋上に続く扉の鍵穴にヘアピンを差込み、すこし動かすと、かちゃりという軽い金属音がして、ドアは簡単に開いた。アルミ製のドアノブは新築の校舎には不似合いなほど安っぽく、どこか古臭い。最も、うちの校舎の形状を考えると、屋上から刃物を持った不審者やお礼参りの上級生が侵入することはまずありえない。ここから入ろうと思ったら、映画かなにかの怪盗さながらに、ヘリコプターかなにかが必要になるだろう。だからこれは、生徒たちを外に出さないための鍵でしかない。それを思えば、大して強固な鍵である必要はないのかもしれない。
ここまで来れば他の人の目はまずない。土谷は振り返ることなくそのまま真っ直ぐに屋上へと出た。
夏の空が遮るものなく広がっていた。いつも通り強い風も、今日は少しだけ乾いている。気温は三十度を越えているはずだけれども、不快感はまるでなかった。
「いい天気だ」
土谷は小さく呟いて、手提げから細長いシートを取り出した。そしてその上にごろんと横になる。
「昼寝しに来たのか?」
「ごろごろしに来たんだよ」
つられるように、僕も地面に転がった。さっきまで日陰だったのか、コンクリートの床は少し冷たくて心地よかった。
「土谷さんさ、高いところ好きなのか?」
ふと、問いかけてみる。フェンスのない屋上を平気で秘密のくつろぎスペースにしている人は、そうはいない。そもそも学校の封鎖された戸をピッキングして侵入する人もほとんどいないと思うけれども。
「んー、どうだろう」
少し迷って、土谷はそんなはっきりしない声を出した。
「特にそういうわけでもないよ。怖くもないけど。なんだろうな」
「飛行機とかは?」
「乗ったことないなぁ」
「ジェットコースターは?」
「わりと好き」
「バンジージャンプは」
「やったことはないけど、多分好き」
土谷は僕のほうを振り向いて、少し困ったような顔をした。
「なんで?」
「いや……」
僕の頭にあったのは、階段の踊り場からふわりと跳ぶ土谷の姿だった。結構な高さを物ともせず、彼女は軽やかにしなやかに跳ぶ。足が痛くはないのだろうかとか、バランスを崩したら大怪我に繋がりかねないと思うのに。
跳ぶ訳を、僕は知りたかった。それが、ここ最近ずっと土谷を見ている理由だった。
「…………土谷さんが、階段から跳んでるの、何回か見たからさ」
「あ」
少しだけ間を開けて、土谷は困ったような笑みを浮かべた。
「そういえば、前外で見られちゃったっけ」
「うん」
その前にも、学校の階段で同じ光景を見たことは、なんとなく黙っていた。あのときのことのほうが、僕の中ではやけに鮮明だけれど。
今目の前にあるかのように、はっきりと思い出せる。教室でぼんやりしているときの土谷を前にしたならば、目の前にいる本人よりも、より鮮やかに見えるほどだ。
どう尋ねればいいんだろう。上手い言葉が出てこない。どうして跳ぶのか、と聞くのもなにか変なような気がした。走り幅跳び得意そうだよな、とか、足痛くないのか、というのも最初の質問にはそぐわないだろうな、とは思う。
「跳ぶの、好きなの?」
どう聞くのが一番無難なのかがわからないまま、とりあえず僕はそう口にしていた。土谷は、少し迷ったように間を置いてから、「わかんない」と答えた。
「わかんない?」
「うん、たぶん。あのね、……跳んでるときって一瞬だからだと思うんだけど、あんまりちゃんと覚えてないんだ。気づいたら、ジャンプしちゃってるの」
変かな、と小さく尋ねてくる土谷に、首を振った。明らかにほっとした表情を浮かべて、土谷は続けた。
「ふわふわした感じは、覚えてるんだけど」
そう言ってまた土谷は、変かな、とこちらを見た。もう一度首を横に振った。
「変じゃないと思う」
答えると、土谷の表情がふわりと緩んだ。
「……ありがとう、川口君」
土谷は、そう言って笑った。どういうことだろう。礼を言われる理由に心当たりがなくて、僕は多分きょとんとした顔を土谷に向けたのだろう。
「あたし、変かなって思ってさ。誰にも言わなかったんだ。川口君が変じゃないって言ってくれて、なんか嬉しいよ」
それから、少しだけ間を置いて、僕の目を伺うように覗き込んだ。
「変じゃないついでに、もうひとつだけ、聞いてもらってもいい?」
土谷の真っ黒い瞳が、僕をじっと見詰めていた。何故か、心臓がどくりと鳴った。黙って僕は頷いた。
「あのね」
少し躊躇いが滲んだような声音で、土谷は、少しだけ小さな声で続けた。
「川口君は、幽体離脱って、信じる?」
「え?」
「幽体離脱。幽霊の幽に、体に、離脱するの離脱で、幽体離脱」
「や、知ってるけど」
言葉はちゃんと拾えている。ただ、一瞬なんのことだろうと思っただけで。
幽体離脱。体から自分の魂が抜け出てしまう体験。今までに読んだ本の中にもそんなシーンはいくらでも出てくる。それを信じるか、というのは、実際にありえると思うか、と聞かれているんだろうか。
「どう思う?」
「うーん、どうだろう」
少なくとも僕は体験したことはない。いつだって意識はこの身体の中にあるという感覚がある。僕の意識は僕の脳の中にあって、僕の感覚は目や耳や鼻や口や皮膚から入り込む情報によって構成されている。
僕が迷っていると、土谷は何か言いたそうに口を開きかけ、また閉じてしまう。そんなことを、何度か繰り返す。
「僕はわからないし、やったことないけど。土谷さんは、どう?」
「あたしは」
土谷はまだ迷っているようだ。
「別に、信じてるって言っても変だとか思わないよ。僕にはわからないだけかもしれないし」
母の言葉を、僕は思い出す。人は自分の脳で処理した世界しか認識できない。だから、人によって見えている世界は違う。土谷の脳が、魂が身体から抜けていくような感覚を生じさせていたって、何の不思議もない。そしてそれは、僕だけじゃない、土谷以外には共有することはできない。
「土谷さんが嘘ついてるとも思わないしさ」
そう言うと、土谷は少し逡巡するように両目を右へ左へと彷徨わせてから、やがて、口を開いた。
「……あたし、たまに幽体離脱してる気がするんだ」
土谷は、自分の掌に視線をやりながら、小さな声で言った。
「よく覚えてないんだけど、なんか身体からあたしがすーっと抜けて浮き上がって、上からあたしを見ている気がするの」
「上から?」
「うん。多分、あたしは寝てて、それを上から見てる……そんな感じ。ちゃんと覚えてないし、夢、かもしれないんだけど」
夢、と口にしたところで、僕をちらりと見た。話の続きが聞きたくて、僕は頷いた。
「何を見ているかは覚えてないんだ。でも、そのふわふわした感じだけ、なんとなく覚えてるの。どういう感覚なのか、うまく説明できないんだけど、少し、高いとこから跳んだときの、ふわふわした感じと似てるんだ」
「じゃあ、いい夢なんだ?」
僕が聞くと、土谷は下を向いて、小さく首を振った。