永遠のフィルター
4. とぶ、こころ
梅雨明け宣言が結局出されないまま、夏になった。
結局あの日からはずっとなんとなく天気の良くない日が続いて、屋上に上がることはなかった。土谷と話すことすらなかった。借りたふたつの知恵の輪も、相変わらずほどけることなく繋がったまま、僕の勉強机の上に置きっぱなしになっている。寝る前に十分ぐらい取り組んでは見ているのだけれど、糸口は見つけられないままだ。
土谷は相変わらず、そこにいるはずなのにいないような感じで、それでもちゃんと教室の座席についていた。一度席替えがあって、土谷の席は一番前に移った。僕の席はその列の真後ろで、土谷の顔を見ることはできなかった。
そのまま夏休みに突入した。学校の図書室は夏休み中は閉鎖されるので、僕は雨が降っていない日はほぼ毎日市立図書館へ通っていた。関東以西よりは短いとはいえ、それでも一月近くある夏休みの間、部活に入っていない僕は学校に行く用事がまったくない。
一応それなりに宿題を片付けつつ、読みたかった本を片っ端から読み漁り、後は二泊三日で東京の父のところに遊びに行ったりしているうちに、夏休みはあっという間に過ぎていった。東京はどこもかしこも人だらけで、こんなところの歩道橋で踊り場から飛び降りたら、誰かに当たって怪我をさせてしまいそうだなどとぼんやりと思う。学校がない以上、土谷の姿を見ることはなかった。
夏休みも残り一週間を切り始めた頃だ。僕はフィクションを一本執筆していた。別にどこかに投稿する小説を書いているわけではない。夏休みの宿題に、日記があったことをすっかり忘れていたのだ。
とはいえ、僕の夏休みはほぼ家にいるか図書館にいるかの二択だった。一日分なら東京旅行の日記でどうにでもなるけれど、恐ろしいことに、短くても良いから、毎日必ず書くようにという類のものだった。毎日同じ内容になるしかない。
しかしそれもあんまりなので、一応それなりに野山を駆け巡ってみたり、お祭りに行ってみたりしたことにしてみようと考え、古本屋で県内のガイドブックを買ってから図書館へと向かっていた。どうせ確かめようもないんだ。多少楽しく活動的な夏休みを捏造したところで怒られることもないだろう。
去年できたばかりの大きな全国チェーンの古本屋を出ると、空には雲ひとつなかった。滅多に見られないほどの青。薄曇りの灰色の空ばかり見慣れた目には、少し眩しい。
自転車の車輪の回る音が響く。国道沿いから一本外れれば、静か過ぎるくらい静かだ。平日の日中の家には人の気配はない。一車線の、数年前に舗装されたきりがたがたの傷んだ道路沿いには、何軒かの家が点々と建っているけれど、ほとんどは背丈の高い草ぼうぼうの空き地だ。家並にも、半ば廃墟と化しかけた空き家が混じっている。そのうちの一軒から、にゃあと鳴く声が聞こえた。野良猫たちの住処にでもなっているのだろうか。
でこぼこになったアスファルトの上で、自転車が僅かに跳ねてベルがちりんと鳴った。速度を少し落とす。草の匂いが鼻腔を擽った。
ふと、道の先に、見慣れた制服の背中を見つけて、僕はスピードを上げた。すらりとした細い体に、長めの黒い髪。
「土谷さん」
できる限りの大きな声で呼びかけると、土谷が振り向いた。数秒自転車を全力でこげば、遠かったその姿はすぐ目の前に迫ってくる。
「川口君、お久しぶり」
小さな笑みをその顔に浮かべる。今日の土谷は、ここにいた。
「図書館に行くの?」
「ああ。……土谷さんさ、ひょっとして僕の行くところって図書館と本屋さんしかないと思ってない?」
「だって、今学校夏休みでしょ。そしたらそれしかないよね」
「……………………」
間違いではない。残念なことに。だから今夏休みの日記を創作しなければならないような事態になっているのだし。
「土谷さんは、どこ行くの?」
僕はひょいと自転車から降りた。肩から掛けていたメッセンジャーバッグをかごに放り込む。土谷の歩調に合わせて、僕は自転車を押しながら歩いた。
「学校」
「部活?」
「ううん、天気がいいから」
そう言って、土谷は右手を髪の毛に、そしてそこに差してある一本のヘアピンに当てた。「川口君も急いでないなら、少し寄っていく?」
断る理由はなかった。僕は頷いて、土谷の隣を歩いて、通い慣れた道を進んだ。
授業のない日に学校に来るのも初めてなら、制服を着ないで校舎に忍び込むのも初めてだ。玄関は、夏休み中も活動のある部活の生徒のために開放されていた。
「よかった。さすがにここの鍵は中の鍵よりずっと厳しいし、大体がちゃがちゃやってるところ見られたら、怪しいもんね」と土谷は言って笑う。
音楽室から吹奏楽部の演奏が聞こえた。グラウンドで野球部が守備練習をしている。バスケ部とサッカー部と陸上部が走りこみを一緒にやっているのは、顧問がサボっているからだろうか。三つの部活の部員を全部まとめて先導しているのは、サッカー部の顧問だったと思う。
それでも、校舎の中に一歩足を踏み入れると、そこは不思議なくらいに静謐な空間だった。普段はたくさんの人の話し声や足音、机や椅子を動かす音で溢れた後者が、しんと静まり返っていた。吹奏楽部の練習している校歌だけが、階段と廊下を伝って学校中に響いている。それに加えて、僕と、土谷の足音が、誰もいない廊下に反響した。
土谷の足取りは軽い。一段一段、弾むように階段を昇っていった。僕はその後についていく。会話はない。見つかるわけにはいかなかった。制服を着ている土谷はまだ「部活で」だとか「自習をしに」だのとごまかしが利くけれど、まさかこんなところに来ると思っていなかった僕は間抜けにも私服だ。半袖のシャツと七分丈のズボン、しかも自転車。見つかったら確実に叱られるだろう。とりあえず自転車は教員用の駐輪場にこっそり止めておいた。
変な緊張感が走った。前を迷いなく進む土谷は、意外と根性が据わっているのかな、などと思ったりする。うっかり見つかってしまった時の言い訳とか、考えているんだろうか。そもそも、平気で鍵をこじ開けてしまうぐらいの奴だ。それでも、ほんの少し前に自殺の現場となった、フェンスのない屋上に行くために。
ふと思った。土谷は一体、何を考えて過ごしているんだろう。
喋っている時の土谷の印象は、小学校で同級生だった頃となんら変わりない。けれど、この目に映る土谷の姿は、あの時とは大分違っていた。魂が抜けたみたいにぼんやりとした姿、自殺があったことで存在を知った屋上を探したこと、それを探すための手段の過激さ。今まで、僕が知らなかった土谷の姿が、階段の踊り場で跳ぶ姿を見たあの日から、矢鱈と目に付いていた。
四階の階段に備え付けられた防火扉は、言われてみると確かに他の階のそれと色合いが微妙に違っていた。これだけ去年の三年生の自殺から、僕らの入学までの間に追加されたものだからなのだろう。言われてみないとまったく気づきもしなかったけれど、意識してみればわかった。その鍵を手際よく開けると、一応周囲を見回してから、土谷と僕は封鎖された内側へと入った。空気が少し変わる。