永遠のフィルター
「覚えてない。夢かどうかもわからない。感覚だけ、夢にしちゃあちゃんとあるしさ。だからかな。あれが夢なのか本当なのかもわからないけど、似たような感覚が現実であったら、あれって現実かもしれないなって思うの」
土谷は「うまく説明できないなぁ」と呟いた。
「意味わかんないよね。ごめん」
「いや、僕が聞きたくて聞いたんだし」
困ったように小さく笑う土谷に、そう返すと、少しほっとしたように表情が緩んだ。
「ありがとう。……でもさ、本当に現実だったら、あたし凄くない? ただでいろんなところ入り放題だよ。新しくできたスーパー銭湯だってこっそり入れるし」
「……幽体でお風呂に入って、気持ちいいのかなぁ」
「あ」
はっとしたように、土谷が口元を抑えた。そして、僕のほうを見て笑う。
「そういえばそうだ。幽霊がお風呂に入ってるなんて話聞いたことないね。多分何にも触れないんだから、お風呂も入ってもお湯に触れないか。なーんだ。残念。あんまり使い道ないね」
そのまま、半分起こしていた頭を床に下げて、完全に土谷は寝転がった。
「じゃ、別にできなくてもいいかな」
「そういうもんか?」
「そういうもんだよ」
土谷はそう言って、目を閉じた。「すごいかもしれないと思ったんだけどなぁ」と呟く様子が、少し面白かった。
「そういえばさ」
「なに?」
目を開けないまま、土谷が返事を返してくれた。
「あれ、二メートルくらいあるよな。痛くないの?」
「たぶん」
「多分、って」
「……それも、ちゃんと覚えてないんだ」
土谷は、少し言葉を選ぶように、そう答えた。
「ふわふわした感じはわかるんだけど、それだけなんだ。痛いかどうかも、あんまりよく覚えてない。最近、そんなのばっかりなんだよ。気づいたら一日終わっちゃってて、学校でどうしてたかとかも記憶にないの。なんか脳の病気だったりしたら、怖いな」
そう言う土谷の表情は、不安そうだった。考えたくないことなのかもしれない。
なんとなく、土谷が覚えていないというのは、あのぼんやりしているときのことなのではないかと僕は思った。まるでここにいないかのように、動かない。なにもしない。なにも見ていない。それこそ、幽体離脱で魂だけがどこかへ行ってしまっているみたいに。
あのとき、そこにいるだけで、本当に土谷が目を開けたまま寝ているとかして意識がないとすれば、その間のことを覚えていないのは理解できる。だけど、もしそうだとしたら、あまりにも寝過ぎで、それはそれでどこかに異常があるような気がする。
「うちの母親、医者だから診てもらう?」
言うと、土谷がふっと顔を上げた。
「お母さん、お医者さんなんだ。凄いね」
「凄い……のかなぁ」
PTAだとかなんだとかで、同じような台詞を言われるたびに、母は明らかに面白くなさそうな顔をする。言いたいことはいろいろあるらしいが、一応その場では飲み込んでいるようだ。そして、たまに家に戻ってからぼやいている。
「医者だから、四大出だから、それだけで凄いって言われるのは絶対にいろんなものが間違ってる」と母は言う。それも、母の言うところの本人の価値の証明としてではなく、その証明書自体に価値がある状態の一種なのだろう。
「医学部入って医者になるだけだったら、勉強さえできればできる。でも、いいお医者になれるのは、そのほんの一部。もし本当に私が凄い腕のいい医者で、私の治療で子どもたちとか親とかがどんどん救われて、それを見てくれてた人が凄いって言ってくれるなら私だって悪い気はしないさ。直接見てないのでも、その噂を聞いて凄いって言うならそれはそれで別にいいよ。でも医者だって言うだけで二言目には『凄い』って言われるのは、嫌なんだよなぁ」
そんな風な愚痴を聞いたことも、何度かある。
「凄いかどうかはわからないけど、医者だよ。もし専門じゃなくても、知り合いにいろんな科の人いるだろうからきっと紹介してくれるし、気になるなら一度診てもらうか?」
土谷は、「うーん」と小さく唸った。迷っているようだ。そりゃあ、病院が好きな人はあまりいないとは思う。でも、気になるならさっさと検診を受けてすっきりしたほうがいいような気がする。もしも病気だったなら、治療開始は早いほどいいだろうし。
「……怖いなぁ」
「怖い?」
「もしも不治の病とかだったら、嫌じゃない?」
そう尋ねてきた土谷の目は、真剣だった。
「それは、そうかも」
「白血病とか、そういう、絶対治らないような病気とかだったら……あたしは知りたくないなぁ」
「今時は結構白血病も治るぞ」
「え、そうなの!?」
土谷は顔をはっきりとこちらへ向けた。表情からは、驚きが見て取れる。
「だって……こないだやってた映画で」
「あー、先週の土曜日ぐらいにやってたあれ?」
「そうそう」
確か一番の見せ所が、無菌室のガラス越しにキスをするシーンと、空港でヒロインを助けてくれと絶叫するシーンだったような気がする。実は観たことないのだけれど。
「だってあれって、結構昔って設定じゃなかったっけ? 大人になった主人公の回想話だったような」
「そうだったっけ?」
「……見てたんじゃなかったのか?」
「うう、ところどころは覚えてるんだけど」
飛び飛びなんだよね、と土谷は続けた。
「白血病になった長澤まさみをオーストリアに連れて行こうとしたら空港で死んじゃうんだよね? あと、エアギターがどうとか言ってた気がするんだけど」
「……ちょいちょい間違ってるけど、多分大体そんな感じだと思う」
オーストラリアとオーストリアは大分違う。南半球か北半球かも違えば使ってる言語も。そして恐らく土谷が言いたかったのはエアーズロックのことだろう。うろ覚えにも程がある。あと死ぬのが空港だったか病院だったかを、実は僕は知らない。
一瞬、本気で土谷の脳が心配になってきた。本当に危惧する通り病気かなにかだとしたら、少しでも早いほうがいいんじゃないだろうか。
「……まぁ、あの映画はともかく、どんな病気だって発見が早ければ早いほど助かる確率は高いんだ。土谷さんがもし気になるなら、一度見てもらいなよ。検診受けて損することはないんだから」
言うと、土谷はうーんと小さく唸った。
「そうだよね……正直授業ほとんど記憶にないから、一学期の期末も見たことない問題ばっかりだったし、理科なんか問題用紙見た覚えもなくて気づいたら終わってたし、やばいかもしれない」
「それ、理科0点だったんじゃ」
「解いた覚えないのに、何問かちゃんと答え書いてあって、一応三十点ぐらいは取れてたんだよね。でも、返ってきてから見返しても、やっぱりそのテストも答えも、見た覚えなくてさ」
「………………」
流石に、少し気味が悪かった。土谷がではない。土谷の置かれている状況がだ。
本当に何か、重い脳の病気なんじゃないだろうか。土谷が嘘をついているとは思えないけれど、本当だとすると、こんなにしょっちゅう意識が飛んだり、やったことを忘れていたりするなんて、普通あるんだろうか。
「それって、子どもの時からずっと?」
土谷ははっきりと首を振った。
「ううん、ここ二年ぐらい」