永遠のフィルター
「はい」
僕は、左手に先ほどの、解けないままの知恵の輪を載せたまま、右手でそれを受け取った。さっきのものよりもずっと難しそうで、正直解ける気がしない。これをあっという間に難なく解いてしまう土谷に、尊敬の念すら沸いてきた。鍵開けのことといい、土谷の頭の構造は、僕とは違う気がする。
「ありがとう」
「うん。ハマったら言ってね。いくらでも貸してあげるよ」
最初のものすら簡単には解けないのに、二つ目が解けるのは一体いつになるんだろう。そんなことを思ったけれど、取り合えず僕は二つ目をポケットにしまい、一つ目の知恵の輪の攻略に取り組んだ。
吹き抜ける、涼しく心地よい風は、頭をすっきりと冴えさせてくれる。それでも、僕は一つ目すら解くことができない。
時折、隣からも同じような音が聞こえる。土谷はまた違う知恵の輪を解いているのだろうか。気になったけれど、僕は目の前の知恵の輪に意識をほとんどすべて傾けていた。それでも、外れるかと思った瞬間に、金属の輪の隙間はすべり、また輪は空回りした。
そんなことを続けて数分。まったく解ける気配のないまま、昼休みのゆるやかな空気はチャイムによって終わりを告げられた。
「もうそんな時間?」
思わず口にする。物事に集中していると、時間の経過はあっという間だった。
「早いねえ」
土谷ものんびりと言いながら立ち上がり、スカートの裾についた汚れを払った。すらりと伸びた脚が、妙に目に焼きついた。なんとなく目を逸らす。視界を満たした空はどこまでも青いままだ。
「じゃ、帰ろうか」
スカートのポケットにチャイムが鳴る寸前まで遊んでいた知恵の輪をしまうと、土谷は出入り口に向かって歩き出した。僕もその後を追う。
土谷は屋上の鍵を手際よく掛け直すと、ここへ繋がる道を塞いでいた防火扉に向かってまっすぐ進んでいく。
「あのさ」
その戸に手を掛ける直前、僕はその背に声を掛けた。振り返る。
「なに?」
「また、屋上に行く時あったら、僕も行っていいかな」
今もまだ、この身にあの風の心地よさが残っている気がする。一歩歩くたびにがちゃりと音を立てるポケットの中の小さな金属が、それをはっきりと思い出させるような気がした。
「いいよ」
土谷はなんの迷いもなく、そう答えた。
「じゃあ、また天気の良い日になったら、川口君にも声かけるよ」
そう言って笑い、土谷は防火扉に手を掛けた。
誰も見ていないのを確認して隙間から出る。鍵を掛け直すがちゃりという音がした途端、空気の匂いが変わったような気がした。
そして今日もまた、あのことを聞きそびれたことに気がついたけれど、防火扉を抜けて三階への階段を下り始めた土谷は、いつも教室でしているような、あの表情のない顔だった。
そして踊り場から三階へ、彼女はふわりと跳んだ。
教室に戻った土谷は、またいつものようにぼんやりと午後の授業時間を過ごしていた。あのかちゃかちゃという金属音も聞こえない。先生に当てられることもなかった。
先ほどの楽しそうな土谷とは別人のようだった。さっきまでの姿は、小学校の頃に見ていた土谷と、ほとんど印象が変わらないのに。
口数は多くないけど暗くはない。どちらかというと控えめで、前のめり気味の女子たちの中ではどうしても聞き役ポジションに回る。だけどちゃんと相槌も打って、クラスの中に確実に土谷の居場所はあった。
いじめに遭った、という噂は聞いていない。それでも、一小は一学年三クラスあり、違うクラスの話題は聞こうと思わなければ耳に入ってはこない。六年生の頃の土谷のことは、まったく知らないのだ。