永遠のフィルター
どうして、彼女は跳ぶのか。あのぼうっとしているときは一体どういう状況なのか、なぜあんな風にここにいるのにここにいないような、そんな顔をするのか。何を考えて、立ち入り禁止のはずの屋上にいるのか。一体どうやって、鍵がかかっているはずの防火扉を開けたのか。
小学校の頃から知っているはずなのに、ただただ疑問ばかりが涌いてくる。今僕が見ている土谷の表情は、小学校の頃によく見たそれで、口調もあの頃のままなのに、なにか別人のような違和感。
それらが、気になって仕方ない。
「……普段教室にいつもいるのに、いないから珍しいなと思って、廊下に出たら見かけたから、どこ行くんだろうって思ったんだ」
しっくりくるような言い訳がどう考えても思い浮かばない。僕は諦めて、そう口にした。土谷は少し考えて、「そういえばあたし、昼休みあんまり遊びに行ったりしないもんね」と呟いた。それを僕が気にしているということについては、追及してはこなかった。
「今日は天気が良かったから、嬉しくてね、つい」
そう言って、いたずらっぽく笑って。片手をすっとさらさらした髪の毛へとやる。そこから一本、飾り気のない黒いヘアピンを引き抜いた。校則に触れることは決してないだろう地味なヘアピンは、百円均一ショップでプラスチックの小さなケースに何十本と詰まって売られているような、ごく一般的なものだ。
「わかるかな」
「何が?」
「よく見てみて」
ヘアピンを僕の目の前に突き出す、その指は背と同じで細くて長かった。黒いヘアピンと白い指先のコントラストが、妙に目に残る。その指の向こうで、土谷がやたらと楽しそうに笑っていた。
何の変哲もないヘアピンだ。目を凝らしてみる。それは少しだけ曲がっていて、ケースに詰めるのにはあまり良くなさそうだ、と思ったところで。
「あ」
「わかった?」
土谷が嬉しそうにこちらを見た。僕の知っている、小さな頃の土谷と同じ表情だ。
「このヘアピンで、階段の防火扉開けたのか?」
土谷はにっこりと笑った。
空は真っ青に澄み切っていた。これだけ天気の良い日は、年にそう何度もあるものではない。風は僅かに湿気を孕んではいたけれど、十分に爽やかと言っていいだろう。この校舎より高い建物はこの町に二つしかない。五階建てのマンションと、六階建ての総合病院とだけだ。ここからなら、遮るものなく町全体を見渡すことができる。遠く東側には緑鮮やかな山が広がっているし、西側には海が見える。空の色を受けて灰色であることの多い海も、今日は見事な青色で、太陽の光を反射してきらきらと輝いていた。
「よく来るのか?」
「たまにだよ。大体は放課後だけど、今日はあんまり天気が良かったから、我慢できなくて、つい」
答えながら、土谷は柵のない屋上の淵を、平気で歩いていく。僕は、ふと視界に入った地面までの距離に背筋がぞくりとして、なるべくそれが目に入らない位置に留まった。これは、結構怖い。けれど、確かに青空の中、まっすぐに吹き抜ける風は心地よかった。
「よくこんなところ知ってたな。うちの学校、屋上あったんだ」
そう言うと、土谷は少し困ったような表情を見せた。
「あれ、川口君知らない?」
「何を」
「去年、ここから落ちた人がいるんだよ」
「え」
僕はぽかんと土谷を見た。そんなこと、聞いた覚えもない。
「去年の三年生で、高校落ちて、浪人決まっちゃって、って話だけど、噂だから知らない。三小の人で、知らない人だったし。だから屋上があるのは知ってたけど、屋上に行く階段なかったから、気になって探したんだよね。そうしたら、ここの防火扉だけ他の階のと会社が違ったから、変だなと思って開けてみたらあったんだ。そしたら、思ったより凄くいいところだったから」
なにか、しれっとすごいことを言っているような気がするのは気のせいだろうか。普段、まるでここにいないかのようにぼんやりしているのに。
ただ、なんとなく、鍵屋の娘だけに扉だとか鍵だとかには敏感なのかなと思った。そういえば、防火扉のも何事もなかったかのように「開けた」と。
「……土谷さん、将来ピッキング師とかにはならないよな?」
土谷はその白くて小さな顔に楽しげな笑みを浮かべた。
「開けるのは好きだけど、お金を取ったりしようとは思わないから。それにあたしが忍び込んだところでうっかりおうちの人がいたら、返り討ちにあっちゃいそう」
だから、やらないよ。そう言って笑う土谷の顔は、昔のままだ。
「ならいいんだけど。それにしても土谷さん、器用だな」
「そうかな。鍵開けと知恵の輪ぐらいしかできないよ」
本来の用途とは違う目的で使われ、やや歪んでしまったヘアピンを髪の毛に戻すと、今度はスカートのポケットから小さな銀色の金属を取り出した。いくつかの輪が連なったそれは、よく見かけるタイプの知恵の輪だ。歩道橋から降ってきたときに聞こえた金属音は、ひょっとしてこれだったのだろうか。
「いつも持ち歩いてるのか?」
「うん。時間空いたときとかにやると楽しいよ。川口君もやってみる?」
はい、と渡されたのは、どことなく見覚えのある構造の知恵の輪だった。またポケットに手を突っ込み、今度は見慣れない形状のものを取り出す。
「こういうのもあるよ」
「……いくつ持ってきてるんだ?」
「んー、四つぐらい? 家に帰ればもっとたくさんあるよ」
知恵の輪って、普段から持ち歩くようなものだったかな、と思ったけれど、それは僕がいつも鞄の中に三冊は文庫本を入れているようなものかもしれない。ないと落ち着かないのだ。机の上の積読も、十冊を切ると不安になって、つい買いに走ってしまう。どうせ図書室で本を借りてくることが多いから、買った文庫本の消費速度はそんなに早くもないのに。
土谷に渡された知恵の輪を適当に指で弄んでみる。絡み合った二つの輪はからからと空回りするばかりで、一向に外れそうにない。立ったままだから集中力が足りてないのか、なとど考えて、僕は今日の晴天で一応乾いている床に座った。
見た目はそう難しそうには見えないのに。少し悔しくなってがちゃがちゃといじってみるが、変化はない。
「あー、もう」
思わずそんな声が出た。土谷から受け取った時のまま、知恵の輪は僕の手の上にある。
「どう?」
「難しい」
土谷の問いに、素直に答えると、小さな笑い声が耳に届いた。
「慣れればできるよ」
そう言う土谷は、僕の隣に腰を下ろして僕に渡したものよりももっと複雑な形状の知恵の輪をその手の上で転がしていた。かちゃかちゃと小さな金属音が聞こえる。僕がほとんど先へ進めないまま苦闘しているのをよそに、土谷が遊んでいる知恵の輪から発せられる音が微妙に変わっていく。そして。
「できた」
かちゃり、と小気味良い音と共にそう言って、二つにばらけたそれを嬉しそうに見せてくれた。どう繋がっていたのかさえ、僕には見当もつかない。そんなことを思いながら見ていると、興味を持ったと思ったのか、「貸してあげるよ」と言って、それを、片方ずつ手に取った。
「ちょっと待ってね」
その指先がくるくると回るたびに、かちゃん、がちゃりと音が鳴る。いつの間にかひとつの形に戻ったそれを右手で掴んで、僕の前に出してきた。