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なつきすい
なつきすい
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永遠のフィルター

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3. その先は、晴天の中に


 六月も半ばに入り、南西の方角から北上してきた梅雨前線に常盤は飲み込まれた。
 このあたりの梅雨は、だらだらと長い。酷い年は梅雨明け宣言がとうとう出ないまま夏になる。元々この地域はあまり好天に恵まれてるとはいえないこともあって、なんとなくいつも空気が水気を含んでいて重たい。そしていろいろなものに盛大に黴が生える。パンは一日とほったらかしにはできないし、外から帰ってきて壁に手を着いたら、数日後壁紙に僕の手形が緑色に浮かび上がったこともある。除湿機の水も一日に何度捨てたかわからないほどによく溜まる。母が独身の頃から使っているという年季の入った布団乾燥機は今年もフル稼働だ。
 土砂降りの大雨が降ることはあまりないけれど、いつも空はなんとなく灰色で、しとしとと霧のような雨がだらだらと降り続く。雨がなくともすっきりと晴れ渡ることは稀で、空気がじっとりと肌にまとわりつくようだ。これでもし気温が高かったら耐えられる気がしない。
 だけど、その日は珍しく、からりと真っ青な空が頭上に広がっていた。前日までの雨のせいで、さすがに風は湿気を孕んではいたけれど、それでも、折りたたみ傘を鞄に入れないで登校できるのは久しぶりだった。鞄がそうであるように、足取りもいつもより軽かった。
 久々に広がった青空に、クラスメイトも、先生も、どこか浮き足立っているように見えた。野球部やサッカー部、テニス部のように外で活動する運動部の部員たちは特にそうだ。ここのところは放課後は屋内の練習場所を巡って熾烈な争いを繰り広げていて、そのせいで部活に関係ない時間であってもやや険悪な空気が漂っていたのだ。練習場所のせいだけではなく、いかにも裏日本といった雰囲気満点のどんよりとした空模様が、鬱屈した思いを高めていたのかもしれないけれども。ともかく、今日は快晴だ。海沿いで砂地、加えてやや高台に学校があるおかげで、グラウンドの水はけはかなり良い。狭い体育館や格技場のスペースを取り合うこともなく、どの部活も思う存分練習に励むことができるだろう。
 朝のホームルームが始まる直前、僕はいつものように土谷美月に目をやった。すると、一瞬目が合った。土谷は小さな笑みをその整った顔に浮かべた。
 今日は、ちゃんといるんだ。視線も合っているし、表情もある。いつもはどことなく乏しい存在感も、普通の人と同じだ。これも、天気が良いせいなのだろうか。ここにいる、ぼんやりしていないときの土谷は、小学生の頃と比べてそう大きく変わったようには見えない。
 今日は下から外れてしまいやすく女子に不評な制服のファスナーも気づいたら直ぐに直しているし、髪の毛についたゴミもちゃんと払っている。どれもぼんやりとしているときの土谷であればほったらかしにしているものだ。
 周りの人が土谷を意識しないように、土谷自身も土谷を意識していないみたいだ。というよりも、一応目は開けているけれど、そこに土谷の意思を感じないのだ。眠っているかのように。――抜け殻かなにかのように。
 けれど、今日の土谷はちゃんとそこにいる。英語の時間、目に付いた生徒に適当に当てていく先生が、珍しく土谷を指名した。口から転がり出た和訳はいかにもいまここで慌ててやりましたという感じが全開で、先生がぎろりと土谷を睨んだ。小学生の頃の土谷はいつも宿題をきちんとして、忘れ物も少ない印象だったので、少し意外だった。
 昼休みになると、いつの間にか土谷の姿が教室から消えていた。トイレ以外で土谷が休み時間出歩くことは珍しい。なんとなく気になって、僕も廊下へと出た。廊下の一番向こう、階段の手前のところであのすらりとした姿が目に入る。心持早歩きで、階段を昇っていくその背を追った。
 この学校は四階建てだ。一番最上階に図書室や視聴覚室のような共用スペースが集まり、三階に一年生、二階に二年生、一階に三年生の教室が並んでいる。下のフロアほど学年が上がる理由はわからないけれど、受験を控えた三年生に楽をさせるためだとか、全教室に暖房はあるけどエアコンはないから、夏場一番涼しい教室を三年生に割り当てるためだとか、いろいろ噂はある。一番物騒なのは、受験ストレスで衝動的に窓から飛び降りても大丈夫なようにというものだ。真偽は知らない。
 土谷の足音が階段に響く。それを追っていると、足音が止まる。がちゃがちゃという金属の音が聞こえた。
 四階からも階段は上に延びている。だけど、それより先へ行ったことはなかった。そこは普段は鍵付きの防火扉で塞がれていて、先へ進むことはできない、はずだ。
 けれど今、その扉は数センチ隙間が開いていた。手でそれを押し広げて体を滑り込ませる。その奥へ入って、扉をいつも通りに閉め直した。なんとなく、開けっぱなしにしておいてはいけないような気がしたのだ。その先で、またがちゃがちゃと先ほどと似たような音がする。その音を追って階段を駆け上ると、その最奥の白い扉の前に、土谷が立っていた。
 声を掛けようと思うのより一瞬早く、その手がドアノブを捻る。それはすんなりと開いて、一瞬眩しさに目が眩んだ。海沿い特有の強い風が、一気に吹き込んでくる。ニ、三度瞬きをして目を開ければ、そこは青空の中だった。
 土谷はドアを開けっ放しのまま、屋上へと踏み出していた。誰かが上ってくることなど想定していないのか、屋上にフェンスはなかった。四階建ての校舎はそれなりに高さがある。遮るもののない風が一気にこの狭い空間へ吹き込んで、僕は思わず声を上げていた。
「うわっ」
「え?」
 それを耳にしたのか、土谷が振り返る。そして、驚いたように目を見開いた。
「川口君!?」
 こちらに向かってぱたぱたと走り寄る。その顔には困惑と、驚きと、それから少し警戒の色が浮かんでいた。「どうしてここにいるの?」
「えーっと」
 教室からずっと後をつけてきた、と言ったら、気持ち悪がられるだろうか。別にストーカーのつもりはないのだけれど。
「いや、土谷さんが教室にいなかったから、どこ行ったんだろうと思って。見つけたから追いかけてきたんだ」
 とりあえず本当のことを口にした。それでも、そもそもこの理由自体がわりとおかしいのはわかっている。
「あたしを探してたの? どうして?」
 至極当然の疑問だった。理由なんかない。あるとすれば、いつもの土谷と行動が違ったからだ。だけど、それを口にしていいのだろうか。普段から、土谷を観察している、などと。
 迷っていると、土谷の表情が不安げに曇った。
「……ひょっとしてあたし、先生に呼ばれてる? それか、何か当番忘れてた?」
「いや、そうじゃない」
「あと他になんかあったっけ」
「や………」
 本当に、何と言ったものだろう。僕は自分の考えのなさを悔やんだ。これじゃあ、ただの挙動不審じゃないか。
 手頃な言い訳も思いつかない。本当のことを言えば気持ち悪がられるだろう。むしろ、自分でもよくわからないのだ。
 あの赤い陽に照らし出された踊り場から助走をつけて跳ぶ姿を見た日から、その後、歩道橋から降ってくるのを見たときから、僕はずっとこの調子だ。
 興味が沸いているのだ。土谷美月という存在に。
作品名:永遠のフィルター 作家名:なつきすい