永遠のフィルター
普段意識することはなくても、小さな赤ちゃんの頃から、世の中は安全なものだった。それは、少なくとも両親は自分に危害を加えることはなく、いざというときはきっと守ってくれるだろうという安心感があるからだ。火事とか地震とか強盗の押し入りみたいな異常事態ならともかくとして、家は安全だし、安心してひとりになれる場所もある。
親から酷い目に遭わされる子どもたちには、それがないのだ。安心できる場所も、守ってくれる人も、存在した試しがないのだ。あるいは、かつては守ってくれた、安心できたはずの人に裏切られたのだ。
だから、根本的に安心できるはずもない。どうして虐待する両親から被害を受けている子どもは逃げ出さないんだろうと思っていた。違う、逃げたり、立ち向かったり、ともかく抵抗するための力も希望も、なにひとつ与えられたことがないからだ。
だからその責め苦にただただ耐えるしかない。それだけが、親から与えられるものだから。
それでもそこから逃れたいと思ったとき、土谷にはああするよりほか思いつかなかったのだ。他の可能性を、希望を、安心を、持っていなかったから。土谷にあった自分を守るための力は、せいぜい鍵を自在に開け閉めする技術ぐらいで、だけどその力さえ、父親を見てか、或いはその父親に習って覚えたものなのだから、彼から身を守るのにはなんの役にも立たないのだ。
他の犯罪と虐待の根本的な違いは、多分それなのだ。虐待はひとりの人間から生きるために必要なものを根こそぎ奪い取る。なによりも、どんなことよりも惨たらしい罪。
それがどれだけの絶望なのか。それがどれだけ残酷なことなのか、こいつらはわかっているのだろうか。
香水の臭いに吐き気を覚えながら、僕はポケットに手を入れた。片方には、土谷の墓に供えた知恵の輪が、もう片方には、未だに解けない、そしてもう二度と返す機会のなくなってしまった知恵の輪。
金属の冷たい感触を指で感じて、僕はできるだけ香水の臭いを嗅がないようにしながら、深く息を吸った。
この町の警察が無能なことは、とっくに知っていた。
「あの家族は、成立した瞬間から終わってたんだ」
例の件の資料をまとめながら、母はぽつりと口にした。
「世の中には馬鹿な連中が多くてさ、なんでか性犯罪者よりも被害者のほうが責められる風潮にあるわけよ。日本の法律は犯罪者どもの人権は守るのに、被害者の情報はダダ漏れ。補償もろくにしないしね」
その言葉の意味はわかる。けれど、その意図がわからなくて、僕は黙って母を見た。
「だからさ、性犯罪の被害者の泣き寝入り率って半端ないのさ。届出件数と比べて実際の被害は一体何倍になるんやら。特にこんな田舎だと、そういうことがばれると嫁の貰い手がなくなるとか言って、親は娘を責めるし、被害者は隠し通そうとする。だから届け出がないから、犯罪天国なのさ。……だけど、ある意味失うものがなさ過ぎて開き直っちゃった女がいた」
この状況、話の流れ。まさかと思い、僕は聞いた。
「土谷さんの母親?」
「わが息子ながら勘がいいよ。土谷美波の実家は、極端なネグレクト。まともに食事ももらてなくて、ちゃんと世話もされてなかったみたい。直接暴力とかがあったかどうかは、今となっては調べられないけど、何度か栄養失調で小学校で倒れて入院した前歴があったし、児相が介入したこともある。ただ、厚労省の無能行政のせいで児相は慢性的に重度の人手不足だ。ほとんど手を出せずに終わったみたいだね。彼女は親からもらえなかった愛情を求めて変な集団とつるんだり、家出を繰り返しているうちに、ある男からのレイプ被害に遭って、妊娠した。そしてそれをネタに、男を脅したらしい。子どもができた。結婚してくれないと警察に全部話すとでも言ったんだろうね」
「その子どもが、土谷さんだったのか」
「そ。つまり、美月ちゃんは生まれる前から母親に利用されていた。愛情で生まれた子じゃなくて、打算で生まれさせられた子だった」
そして、母は目を伏せた。
「土谷美波は、自分が依存できる対象、きっと自分に愛情を与えてくれるはずの男を手に入れるために、自分に宿った命を利用した。これも、子どもの乱用。その子のために産むんじゃなくて、母親のために生まれさせられる。男は保身のために彼女の夫、その子どもの父親になることを了承する。初めから、崩壊しているんだ」
どうしてそんなことを知っているのかと尋ねたら、その際土谷の母親を担当した産科医が、母とは旧知の仲であるらしく、土谷の葬儀で再会したときにそんな話を聞きだしたのだそうだ。「虐待の予兆は妊娠期間と出産前後である程度つかめるから」とは、十数年の臨床経験に基づく母の持論だ。
初めから崩壊している。その言葉が、重くのしかかる。
「あの両親を庇ってるつもりはないし、あのふたりは美月ちゃんに絶対許されないことをした。それをわかってて、聞いて欲しい。……多分、こんなことになる前に止めるチャンスは、いくつもいくつもあったんだ。例えば、小学生の頃のあの母親が入院したり、児相が介入したときだとか、常習性のある性犯罪者だった父親を検挙する機会もあったはずだし、その父親にしたって、性犯罪に手を出す前に止められたかもしれないんだ。勿論、あの両親は悪い。絶対に許せないし、私だって正直ぶん殴ってやりたいし、そんなもんじゃ足らない。爪を全部はがして指を一関節ずつじっくり切り落としてやったって、美月ちゃんの無念を晴らすには未だ足りないよ。だけど、そうなる前に止められたいくつもの機会を無駄にしたのは、子どもを本気で救いたいって思いをカケラも感じないこの国の福祉制度と、社会全体の無知なのかもしれない。もしもこの町全体の、性犯罪被害に対する意識が違ったら、もしちゃんと児童福祉行政がまともに機能してて、児相や養護施設に、母親の虐待事例にちゃんと関われるだけのマンパワーがあったなら。どこにでも虐待は起き得るってことや、それに伴ってよく起きる行動とかについて、せめて子供に関わる職業の人ぐらいは知っていたなら。私たちが本当にぶん殴るべき相手は、他にもたくさんいるのかもしれないよ」
そして、ふと呟く。
「でも、こんな拳ひとつでぶん殴りに行ったところで、厚労省の壁に罅さえ入らないのさ。それでも、殴り続けるしかないんだけど」
疑問がひとつ、ふっと浮かんで、僕は母にそれを問いかけた。
「なんでお母さんは、それをずっと続けられるの?」
土谷だけじゃない。母の目の前で助けられなかった子どもは、たくさんいたんだろう。制度の壁にも、散々ぶつかってきたんだろう。学校の先生たちや警察の無理解も、母の敵だったに違いない。
それでも、母は迷わずに答えた。
「私が諦めたら、誰がやるっての?」
いつか、少しでも良くなるときを信じて、それまで母はひとりこの常盤の町で、戦い続けるのだろう。そして、全国のあちこちにいるこういう人が、必死で、自分を削って、穴だらけの児童福祉制度を支えているのだ。
怒りのぶつけ先を、間違わないようにしながら。