永遠のフィルター
8. フィルター越しの世界で
一週間が経った。土谷の葬儀もとうに終わって、抜け殻となった身体は荼毘に付された。灰にされる直前、折れた骨や形の崩れた身体は一部整えられて、生前の姿に近づけてはあった。その顔と、柩の窓越しに対面したけれど、やはりそれはどうやっても人形のようにしか見えなかった。知らない男のワゴンに乗せられていたときと、少しだけ、似ていた気がした。
僕は、三日間学校を休んだ。土谷の飛び降りの目撃者だから、というのがその理由だった。心的外傷を心配されたこともあったし、警察による形ばかりの事情聴取もあった。本当に、形ばかりだった。
母の推測と、土谷が話した内容は、ほとんど一致していた。土谷が妊娠していたらしい、ということまではさすがにつかめていなかったようだけれども、残りの部分はほとんど当たっていた。
母が僕に見せた土谷の写真は、土谷の母親が売りさばいていた彼女の写真のうちのひとつだったらしい。そういうデータを流しているサイトを、母が診た別の性的虐待の被害者からの聞き取りで見つけ出し、開いたところで常盤中の制服を着た少女の写真を見つけたのだそうだ。それが、僕に顔の部分だけを見せてくれた写真だったのだが、とても、全体は見せられないという。
警察に事情を聞かれる前に、母にはすべてを話した。その上で、警察とどう話すかも考えた。けれど、警察は何も聞かなかった。
確認してきたのは、僕が殺したわけじゃないこと、なぜ僕があの場所にいたか、そして、土谷は確かに自ら飛び降りたのか。それだけ。
僕が殺したんじゃないことは確か。あの場所にいたのは、本当に偶然、児童相談所の駐車場から、屋上に立つ人影を見つけたから。土谷が飛び降りたのは間違いない。
けれど、その動機について、警察は何も聞いてこなかった。その前に母から聞いたのかなとも思ったけれど、そうではなかった。
家に帰った後、母の部屋から柔らかいものが壁に当たる音が何度も聞こえた。枕を壁に投げつけているのだと直ぐにわかった。
「見ない振りしやがった」と、母は言った。
土谷の持っていた飾り気のない携帯電話は、土谷が飛び降りる前に屋上に投げ捨てていて、そのときに塗装が少しはがれたくらいで本体は無傷だった。そこに残されていた電話番号は、土谷が売春させられていたことの証拠になり、その番号から客たちを一網打尽にすることもできるはずだった。
けれど、警察はなにもしなかった。土谷に虐待を加えていた両親のことも、調べなかった。
母は捜査に必要なことは話したはずだ。つまりは、無視されたのだ。まるでなにもなかったように。
そのことを母は警察に乗り込んで、何度も何度も直談判した。しかし、捜査は始まらなかった。
「娘さんは自分で飛び降りたんだ。あの両親の暴力で死んだわけでもない。それに仮に虐待が本当だとしても、他にきょうだいもいないからこれ以上被害も出ない。被害者はもう死んでるんだし、捜査をして誰が得をするんだ。売春のことが知れ渡ったところで、死人に恥の上塗りをするだけだろう。それに、売春の事実はともかく、母親が娘に身体を売らせるなんて今時そんな話ないだろう、生活に困るほど貧乏だったわけでもないし。それに父親にしてもちゃんと嫁がいて、実の娘を犯す必要がどこにあるんだ?」と警察は言ったという。
信じられない。僕は愕然とした。それから、この町全体の平穏が、信じられなくなった。本当は酷い事件がたくさん起きているのに、そんなことあるわけないだとか、誰が得をするんだだとか、そんな理由で無視されていることは、たくさんあるんじゃないか。土谷のことだけじゃなくて。
そしてそれらを握りつぶして、平和だと思い込んでいるのだ。
あると思って見たならば気づくはずの、無数の悲劇をフィルターで除去して。
土谷の受けた痛みも悲しみもなにもかも、「そんなことあるわけないだろう」の一言で、誰からも考えられすらしないんだ。
「こうやって、どれだけの酷いことが、無視されてきたんだろ」
僕が呟くと、少し考えて母はこう答えた。
「性的虐待に限って言うなら、対応件数の、十倍はいるんだろうね」
葬儀に、警察は来なかった。喪主は、土谷の父親だった。遺族席で娘に死なれた可哀想な父親面をして座っていたその男を見て、僕はよく殴らないでいられたと思う。顔を合わす知り合いがお悔やみの言葉を述べる。それを、悲しい顔をして受け取る。
差し出した香典を受け取ったのは母親だ。土谷を守ろうともせずに、それどころか責め立て、追い詰めて、身体を売らせて、その金で宝石や化粧品、ブランドものを買い漁っていた女だ。今度は土谷が死んで入った香典や保険金で、また贅沢をするつもりなのだろうか。一応葬儀用らしい黒真珠のネックレスや指輪、ピアスは、どれも大粒で見るからに高そうで、とても娘を自殺で失った母親のする格好とは思えないほど豪勢だった。喪服のブラウスの胸元がわずかに開いているのが目に入って、嫌悪感に肌が粟立つ。香水の臭いと線香の臭いが混じった臭気に吐き気を催して、寺の汲み取り式のトイレで少し吐いた。その日の朝は食欲がなくて、口から出てきたのは胃液ばかりだった。
来ていたのはほとんど、小学校の頃の同級生と中学の同じクラスの顔ぶれだった。親戚づきあいも希薄だったのか、それ以外の人はほとんどいない。あのワゴン車を運転していた男の姿もなかった。スーツを着ていたのは学校の先生たちばかりで、あとはほとんど制服姿だった。教室にいるときか、同窓会かなにかみたいだ。そんなことがふと頭に浮かんだ。参列者のほとんどが、知った顔だった。土谷が飛び出していった日に小学校の頃の出来事を話してくれた女子が、憔悴しきった顔で参列していた。焼香をした瞬間、彼女はどっと泣き崩れ、すぐ後ろの順番だった鈴木に支えられて戻ってきた。
「私たちのせいかな」と彼女は言った。自分たちが、あの時、土谷の存在をないものとして扱ったからかと。僕は首を振った。僕ら、同級生が誰も土谷の助けになれなかったのは確かだ。土谷に気づいて、話しかけていたなら、少しはなにかが違ったかもしれない。
けれど、同級生が困惑するような土谷の行動を招いたのも、今回直接土谷を追い込んだのも、あの両親だ。それさえなければ、昔のように、土谷は普通に女子のグループの中で、にこにこと聞き役をしていたはずなのだ。
土谷の母親が泣いている姿を見て、すれ違いざま、「そんなに金づるが死んだのが惜しいんですか」と言いたかったけれど、遺影の土谷の笑顔が目に入ったら、胸が詰まって、どうしても声が出なかった。
土谷の遺体は、ただの飛び降り自殺と判断されたから解剖されることもなかった。解剖していたなら、そこに土谷に加えられた暴虐の証拠が残っていたのだろうけれど、それもすべて一緒に灰となって消えた。
これ以上傷つけられることのなくなった土谷は綺麗で、穏やかな表情だったけれど、それでもやっぱり抜け殻に過ぎなくて、ああもう土谷さんはいないんだなと、そればかり実感させられた。