永遠のフィルター
それは言葉にはしないで、涙でぼやける視界で、土谷に焦点を合わせる。なんとか、彼女の姿が像を結んだ。
「それはね」
土谷の表情が、柔らかく緩んだ。
あの諦めたような笑顔じゃなくて、普通に笑ってくれたように、僕には見えた。
「川口君は、あたしの話をちゃんと聞いてくれる人だから。幽体離脱のことも、記憶が飛び飛びなことも、変な顔ひとつしないで聞いてくれたから。だからきっと、このことも、全部信じてくれるだろうって思ったから、聞いてほしかった。川口君だけだよ。ありがとう」
そして、土谷は空を見上げた。珍しく雲ひとつない空から降る無数の輝きが、滲んで柔らかな光に見えた。暫く、土谷はそれをじっと見詰めていた。それが、最後に焼き付けようとしているように見えて、涙が止まらない。
生きてさえいれば、これからもそんなものはいくらでも見れるんだ。もっと綺麗なものだって、たくさんあるはずなんだ。今日より綺麗な空はきっとあるし、常盤より綺麗な空のある場所だって、生きてさえいればいけるはずなのに。
だけどきっと土谷には、それさえ不安と隣り合わせなんだろう。多分土谷にとって、どんなものも不安定で、いつ何が起こってどう変わるかがわからないものなのではないだろうか。
なにかで見たのだけれど何で見たのか思い出せない文章で、「最高のハッピーエンドは、シンデレラが王子様と結ばれた瞬間に人類が滅亡すること」というのがあった。前後を知らないので言い出した人の意図はわからない。けれど、それと今の土谷の言葉は同じなんじゃないのか。
未来は不確実で、今得たものさえいつまであるのかわからない。それならば、一番幸せなときにみんなで死んですべてを終わりにするのが、一番のハッピーエンド。
「嫌だよ」
土谷にとっては、もしかしたらそれが、一番辛くない手なのかもしれない。不安にも恐怖にも絶望にも、これ以上苛まれないで済むから。
でも、僕は嫌だ。そんなの、ハッピーエンドなんかじゃない。土谷に生きててほしい。
「僕は土谷さんに、生きて欲しい。土谷さんがいなくなったら嫌なんだ。土谷さんにいてほしいんだ。土谷さんの親たちが土谷さんに酷いことできないように、がんばるから。だから、来てくれ。もう家に戻らなくたっていいから、大丈夫だから」
何が大丈夫かなんて、正直わからなかった。だけど、なんとかしたいと思った。
どうしようもないことが山積みなのは知っている。帰る家はない。帰せない。守ってくれる親なんて初めからいない。心も身体もぼろぼろで、妊娠までさせられていると土谷は言う。正直、僕にも八方塞に見える。
だけど、生きてさえいれば、打開策はあるかもしれない。死んだらこれ以上、どうしようもない。
けれど、死んでしまえば、これ以上辛いことは起こらない。良いことも起こらない代わりに。
僕は前者、土谷は後者。だから土谷は首を振る。
「ありがとう。そう言ってくれて、ほんとに、ほんとに嬉しいよ。ひょっとしたら今が、一番幸せかもしれない」
「そんなことない。これから、もっと楽しいことがあるよ! 僕がそうするから、だから!」
風邪で嗄れた喉で、必死に叫んだ。声が潰れたって構わない。今ここで、土谷に言葉を届けることができるなら。
だけど、土谷の耳には届いても、その先へと届けることはできなかった。
僕は土谷じゃないし、土谷は僕じゃない。
だから僕は土谷の世界のとらえかたを推測することしかできないし、土谷だって同じのはずだ。
「あたしはこれが一番いいんだ。ごめんね、聞いてくれてありがとう」
土谷が、笑った。片目から涙がひとつだけ、こぼれた。本当に、綺麗で、綺麗で。
「つ、」
土谷さん、と呼ぶ声が音になる前に、土谷は走り出した。僕の横を一瞬ですり抜け、反対側の端へと。
振り返って追いかける。けれど、元々運動能力の高い土谷に、風邪で思うように動かない僕が追いつけるはずもない。
「ダメだ、行くなっ、土谷さん―――」
思い切り、助走をつけて、フェンスのない屋上の一番端を、その細い脚が力強く蹴って。
ふわりと、土谷の身体が宙に浮いた。助走が長かった分か、僕が今までにみたどの跳躍よりも、高く、高く、遠くへ。
その名前を叫んだ、つもりだった。だけどさっきから酷使しすぎた喉は、もうどんな声をも出してはくれなかった。
高さがあるから、落下までは数秒。一瞬で終わらないその浮遊。今、土谷はどんな感覚を味わっているんだろう。どんな、思いを抱えているんだろう。
その一生の最期を、せめて、せめて少しでも心地よい感覚と、わずかでもいいから幸せを感じていてくれたなら、ほんの少しぐらいは救われるんだろうか。土谷も、僕も。
校舎の端に追いついたとき、僕は、土谷が、本当に魂の抜け殻になる瞬間を、この目で見ていた。
幽体離脱じゃない。完全に、その身体は抜け殻だ。制服が真紅に染まっていく。その身に、土谷が戻ってくることは、もう二度とない。