永遠のフィルター
人間は、自分の脳で処理した事象だけを現実として認識する。だから、脳が土谷の心を守るために、土谷が耐え切れないような出来事を「別人の出来事」として切り離してしまえば、それは土谷にとっての現実にはならないのかもしれない。そして、そうやってきっと土谷は、辛くない部分の時間をパッチワークのように繋ぎ合せて、生きてきたのだ。ぶつ切りになる時間や、ほとんどの時間を土谷が土谷として過ごせないというデメリットはあっても、それでも、その働きは土谷の心を守ってきたのだろう。
だからこそ、屋上で話すときの土谷は、昔のように笑っていたんだろう。
だけど、その防御機構がもう役目を果たしていないことは明白だ。土谷はすべてを思い出した。どうして、今更。
「なんで、思い出したんだ?」
忘れていれば、よかったのに。少なくとも今日思い出すことがなくて、記憶の途切れることに不安を抱えたままでも、いつも通りの明日を迎えていれば、きっと僕の母が土谷を助けにきたはずだ。
それが、どうして。
「……お母さんのメール、見ちゃったの」
土谷は呟いて、それから、少しだけ黙り込んだ。片手をポケットに突っ込むと、がちゃがちゃと聞き慣れた金属音がした。その音を聞いて、土谷は少しだけほっとしたように、声を落ち着かせて、続けた。
「うちにある知恵の輪、全部十回以上解ききっちゃって、常盤にはもうこれよりほかに売ってなかったの。インターネットで通販すれば、もっといろいろあるかなって思って、お母さんのクレジットカードとメアド借りて注文したんだ。そしたら、注文の確認メールを送ったので読んで下さいって出たから、お母さんのメール開いたらね」
あたしの、裸の写真が出てきた。知らないおじさんにパンツの中に手を入れられてる写真もあった。土谷はそう言って、がたがたと震えだした。
「どうしてこんなのあるんだろうと思ったら、いつ撮られた写真だったとか、そういうの、全部一気に思い出しちゃって……仕事で連絡するのに携帯もらってたこと思い出して……探したら本当にあって。ああ、全部、全部本当のことだったんだって思って、気がついたらここにいたの」
メールを開いたら、裸の写真。それの意味するところに思い当たって、僕は心底、怒りを覚えた。
土谷の身体だけじゃなくて、写真まで売っていたのか。日本中の、あるいは世界中の変態どもに。一度拡散したら回収する方法なんかない、インターネットという手段で。
今この瞬間も、世界中で、広まり、晒されているのか。一体どこまで土谷を踏み躙れば、あの両親は満足するんだろう。
酷すぎる。酷いなんて言葉では足りない。適切に罵るための言葉さえ出てこない。ただただ、怒りが沸いてくるばかりだった。
どうして、こんなことができるんだ。どうしてここまで、人ひとりをぼろぼろにできる。しかも、実の娘を。なんの罪もない、まだ十二歳の女の子の身体と心を、ここまで痛めつけられるなんて。
そんな奴ら、死んだらいいのに。
どくりと、心臓が震えた。生まれて初めて知る、感覚だった。多分これを、憎悪と言うんだろう。
「土谷さん」
呼ぶ声が、心臓と一緒に震えている。手の指一本一本まで、変な力が入って思い通りに動かないようだ。
「僕が、土谷さんを助ける」
あのくそ外道たちから、助けなければ。我慢なんてできなかった。これ以上、土谷が傷つけられるのを黙って見過ごすなんて、もうできない。たとえ明日になって土谷がこれらのことを全部綺麗さっぱり忘れられたとしても。
「土谷さんはもうあの家に帰らなくていいんだ。ちゃんと住めるところも用意する。学校もいけるし、もう酷い目に遭わない。だから、だから一緒に来てくれ。僕が、土谷さんを守るから。だから」
行かないで。そう言おうとした瞬間、土谷が少しだけ笑った。
「ありがとう。でも、いいの」
「なんで」
土谷は少し言葉を選ぶように逡巡した後、続けた。
「……ひとつくらい、最期まで信じていたいから」
どういうことか。わからなくて、僕は土谷を見た。土谷は、口元だけで小さく笑う。
「川口君が、あたしの話、変だと思わないで聞いてくれて、本当に嬉しかったんだよ。学校のこと、ほとんど覚えてられなかったけど、ここで川口君とおしゃべりしたりするの、楽しかったんだよ。というか、あたし中学入ってから、誰かとちゃんとしゃべった覚え、川口君としかなかった。今だって、来てくれて嬉しい。こんな話聞いても、気持ち悪がったりしないで、助けるって言ってくれて、本当に、本当に嬉しいんだ」
「だったら」
なんで、一緒に来てくれないんだ。土谷は首を振る。
「今凄く嬉しいよ。だから、今のまま終わりたいんだ」
それが理解できない。もう一度「なんで」と問うと、土谷ははっきりと、答えた。
「今は、川口君のことは信じてられる。でも、それがずっと続くとは限らないじゃん。それだったら、今死んだら、せめて川口君のことを信じたまま終われるでしょ」
「そんな………」
愕然とした。土谷を包む絶望のあまりの深さに。それは、僕には想像もつかないものだ。なぜなら、それは多分根底から違うから。
子どもが、生まれて最初に信用する相手は、自分を育ててくれる人だ。その人を信じて、そこを取っ掛かりにして世界は広がっていく。じゃあ、その最初に信じるべき人が、一番自分を蹂躙し、傷つけてきたら?
何も信じるもののない世界だ。安心できる場所など、どこにもない。
だから、僕のことも信じられない。今はともかく、この先の保証などどこにもないから。だからせめて、僕が土谷を傷つけたり裏切ったりしないうちに、死にたいと土谷は言うのか。
視界がぼんやりと滲んだ。泣いているんだと気づくまでに、少しかかった。
あんまりだ。酷すぎる。どうして、土谷がこんな目に遭わなければいけないんだ。土谷が何をしたというんだ。
これまで、心も身体もぼろぼろに傷つけられて。だからせめて、ここから助け出して、幸せになってもらいたいのに。
だけどここまで徹底的に壊された土谷の心は、きっと幸せな環境を与えられたとしても、それを素直に受け止めることはできないんだろう。
土谷は、本来自分を守ってくれるはずの存在から、「可愛くて、好きだから」という理由で理不尽に傷つけられてきたのだから。どんなに善意で接してこられたとしても、その裏に恐ろしいものを想像してしまうのかもしれない。
酷すぎる。ぼろぼろに傷つけられたせいで、その後幸せになるための心さえ壊されるなんて、どこまで惨たらしいんだ。
なんで、幸せにしてあげられないんだ。
どんどん視界がぼやけていく。悲しい。憎い。悔しい。いろんな感情が一気に心を満たしてやまなかった。
土谷の諦めたような笑顔が、言葉が、悲しかった。ここまで傷つけた大人たちが、憎かった。ここまで話してもらったのに、なにひとつできない自分の無力さが、ただただ悔しかった。そして、ひとつの疑問が、胸に浮かんだ。
「どうして、そこまで話してくれるんだ?」
最後だから、だろうか。死ぬ前に洗いざらい誰かに話しておこうということなのか。それで、たまたまここへ来た僕に話したのか。