小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」
なつきすい
なつきすい
novelistID. 23066
新規ユーザー登録
E-MAIL
PASSWORD
次回から自動でログイン

 

作品詳細に戻る

 

永遠のフィルター

INDEX|22ページ/29ページ|

次のページ前のページ
 

7. 滞空は数秒、その瞬間は永遠


 車に鍵をつけて暖房をかけたまま、母は相談所の中へと走っていった。僕はシートベルトを外し、後部座席全体に寝転がった。月の光と駐車場の照明の明かりが、ぼんやりとあたりを照らし出していた。そういえば、今日は快晴だったなということをこんな時間になってから思い出す。日中はほとんど寝ていたので、見てはいなかったけれど。土谷は屋上に行っただろうか。
 児童相談所は、何度か来たことがある。世話になったという意味ではない。今日みたいに、母の用事で何度か立ち寄った。だから、場所はわかる。市役所や市立病院など、常盤の公的機関がまとめてあるあたりに、それはある。常盤中からは、一キロほどだ。
 ふと、窓から外を見た。この位置からは、市内で数少ない高い建物である常盤中が見えた。土谷のことを考えていたせいか、自然と目は屋上へと向いた。
 気のせいか。屋上で、何かが動いているような気がした。こんな時間に。
 車のダッシュボードを探る。去年プロ野球観戦に連れて行ってもらったときに買った、球団ロゴ入りのオペラグラスが出てきた。書いてある短い説明文に従ってピントを合わせる。買ったはいいけれどファールボールが飛んできて危ないからと結局使わず、ちゃんと使うのは今が初めてだった。うまく合わせられずに四苦八苦するうち、点のようだったなにかが、うっすらと人型のシルエットに変わってきた。
 僕の使い方が悪いのか、それとも本来はそう広くはない球場で使用することを前提としたものだからか、はっきりとは見えない。それでも、恐らくそれは、制服を着た女子の姿だった。それを捉えた瞬間、背筋に電気が走ったような衝撃を受けた。
 あの校舎の屋上に上がる女子が、土谷以外にいるものか。それでも、こんな時間に。
 先程より大分ましになったとはいえ、風邪で回転の悪い頭ではうまく思考がまとまらない。それでも、まともとは思えなかった。特に、今の状況では。
 非行、虐待、あるいはその両方。そんな事態に土谷が巻き込まれているなんて、思ってもみなかったし、今でも想像がつかない。それでも、そんな状況にある人が夜にフェンスのない屋上にいたら、誰だって焦るだろう。
 僕は車を飛び出し、児童相談所に駆け込んだ。母がどこにいるかは知らない。受付のガラスを小さく叩く。座っていたおじさんが怪訝そうに顔を上げた。
「子どもこころのクリニックの川口有紀子の息子です、急いで母に会いたいんですが、お母さんはどこにいますか!?」
 上手く出ない声がひっくり返りそうだった。早く、早くと焦る。なんの効果もないのに、足がばたばたと動いていた。身体は、走ろうとしている。
「川口先生なら今大事な相談中だから、ちょっとここで」
「待てませんっ」
 もし、この一瞬に、土谷が飛び降りたら? 待てない。
「どうしても無理ですか? だったら、連絡だけお願いします。土谷さんが学校の屋上に立ってるから、行って来るって」
「えっ!? ちょっと、屋上って」
「言えばわかるはずです、お願いします!」
 僕は振り返らないで走り出した。後ろから何かを叫んでいたが、聞こえない。玄関を飛び出し、通りかかったタクシーに飛び乗った。「常盤中までお願いします」と言ってから、財布を車に忘れてきたことに気がついた。
 きっと母は伝言を聞いたらすぐに追いかけてくるだろう。学校の入り口で待っててもらって、帰りに支払えばいい。
 一キロ。歩くと十分は見なければならないけれど車ならばほんの数分の距離。だけどその数分が、数秒の信号待ちが、長くて長くて仕方がなかった。
 学校の駐車場で待っていてくれるように頼んで、職員玄関のドアから学校へ飛び込んだ。そのまま廊下を走り、一気に階段を駆け上がった。風邪でだるい体がどうしようもなく重くて、毛布は車に置いて来たはずなのに、布団を被りながら走り続けているようだ。四階にたどり着く頃には、息なんかとっくに切れていて、ぜいぜいと喉から嫌な音ばかり出る。それでも、足を止めることはない。
 明かりの消えた廊下で、四階の防火扉の取っ手を手探りで探した。探し当てるまでのほんの数秒が、ひどく僕を苛んだ。ようやく手に触れたそれを掴んで、回して引く。それは予想通り簡単に開いた。ただ、熱のせいか、いつもよりもずっと重たく感じた。
 一歩内側に足を踏み入れると、冷たい風が頬を掠めた。屋上へ繋がる扉は開け放たれ、そこから夜風が吹き込んでいた。間違いない。土谷が、そこにいる。残る体力のすべてを使って、ふらつく身体を持ち上げて、僕は屋上へと上がった。
 何ひとつ遮るもののない夜空は、満天の星だった。月が煌々と地上を照らす。その光の中心に、土谷が立っていた。
「土谷さん!」
 振り返る。その整った顔にどんな表情が浮かんでいるのかは、ここからではわからなかった。
 制服の袖口やスカートの裾から覗くすらりと伸びた手足、肩まである黒い髪。整った顔立ち。それは本当に美しくて、……誰かの悪意でぼろぼろに傷つけられていることになんて、気づけなかった。
「川口君」
 僕を呼ぶその声が、ぐらぐらと揺らいでいるように聞こえたのは、僕の耳のせいか、それとも土谷の声そのものが揺らいでいるからなのか。
「な、に、してんだよ、こんなとこで、こんな時間にさっ……」
 息が完全に上がっていた。声が途切れた。そもそも風邪で声が嗄れかけている。それでも、土谷に届いて欲しくて、僕はそれを搾り出した。
 一歩、距離を詰める。もう一歩。なんとか、土谷の表情の見える距離まで。少し困ったような、こんな状況には不似合いな笑みがわかる近さまで。
「川口君、あたし、頭の病気じゃなかったよ」
 相変わらず、土谷の声は、あの焦点を結んでいない目のように、実像を結ばずに揺らいでいる。ぐらり、ぐらりと。
「忘れてたこと、全部思い出したの。知りたくなくて、あたしの脳味噌、忘れたふり、してたんだ」
「どう、いうこと」
 聞かなくちゃ。聞きたくない。二つの相反する思いが同時に頭を満たす。
 土谷は、僕のほうへと近寄ってきた。ポケットから何かを取り出す。それはいつかみたいな知恵の輪じゃなくて、ストラップひとつついていない、女の子らしくなく飾り気のない携帯電話だった。
「……これ、あたしの携帯、らしいの」
「らしいって」
「持ってること、さっきまで知らなかった。あたしが忘れてる間に使ってたものなの。電話帳も、お父さんと、あと知らない男の人の名前ばっかり、たくさん入ってた」
「…………!」
 彼女が、普段使わない携帯電話。そこに入っていた男のアドレス。それの意味するところは、もしかして、客ということか。そして、それを土谷は知らなかった。覚えて、いなかった。
「この携帯ね、普段あたしが開けない引き出しに入ってた。……入ってるってこと、思い出しちゃって、でも、勘違いか、思い違いか、嘘だって思いたくて、なかったら全部あたしの勘違いのはずだって思って。でも、そこ開けたら、入ってたの。あたしが思い出しちゃったこと、全部、全部現実だったんだって……」
作品名:永遠のフィルター 作家名:なつきすい