永遠のフィルター
なにが、どうなっているんだ。思い出すとすべてに疑問と奇妙さが付きまとう。それを列挙しても、未だ僕には答えが見えない。
土谷美月は、なんなんだ。
結局は、どれだけ考えても行き着くのはそれで、そこから先へ進む答えを僕は持たなかった。それらすべての違和感が、何かひとつに繋がるものが、あるんだろうか。そしてそれを、土谷自身は知っているんだろうか。
僕は、土谷のことを知らない。僕は、僕の目で見、耳で聞いたことしか知りえない。それは、誰だってそうなのだけれど。
すっと、カーテンの引かれる音がした。その向こうには、薄手のセーターの上に白衣を羽織ったままの母が、一枚の紙を片手に立っていた。
「具合はもういい?」
「うん」
そう答えると、母はポケットから空いているほうの手で体温計を取り出し、僕の耳に当てた。数秒でピピっと音がして、母はふうと息を吐いた。
「搬送されてきたときよりは大分下がった。まったく、具合が悪いならちゃんと休みなよ」
「……ごめんなさい」
僕は素直に謝った。熱があるのも、六時間目まではとても持たずに早退することになるだろうこともわかってた。まさか倒れて母のクリニックに救急搬送されるとは思ってなかったけれど。
母も救急車から搬送連絡を受けたときは、一体何事かと思っただろう。児童精神科が専門で、最近は発達障害の診断とサポートが主な業務になっているほぼ予約制のこのクリニックにおいて、救急搬送されてきた患者は僕が初だそうだ。そんな初記録、嬉しくもなんともない。
母は僕の点滴を片付けると、てきぱきと白衣をハンガーに掛けて壁に掛けた。代わりに秋物の薄手のコートを被り、僕には毛布を一枚寄越す。今日の診療は終わったようだった。
「あんたこの熱で上着着ないで行ったでしょ。取り合えず車までこれ被りな」
僕は頷いて、学生服の上に毛布を巻きつけた。その間、帰り支度をさっさと整えた母は、一枚の紙をじっと見詰めていた。カルテにしては薄く、紙質はただのコピー用紙にしか見えない。新しい論文だろうかとも思ったけれど、いくらなんでもA4一ページで収まってしまうような論文はないだろう。
「何かあったの?」
なんとなく気になって、聞いてみた。声はやや嗄れていたけれど、母は顔を上げた。そして、母の視線が一点で止まる。僕の学生鞄だろうか。それから、少し迷ってから、その紙を一部折りたたんで、僕の前に出した。
「……この女の子、あんたの学校にいる?」
そこにあったのは、土谷美月の顔写真だった。
車に向かいながら、母は携帯に向かってなにやら怒鳴り散らしていた。風邪で性能が落ちた耳では母の早口を上手く聞き取れないが、土谷美月、中学一年、急いで親に確認、自分が行く、などいくつかの単語が拾えた。僕を愛車のレクサスの後部座席に文字通り放り込むと、運転席に飛び乗った。
走り出した車は、うちとは違う方角へ進路を取った。
「ごめんちょっと仕事で児相に寄る。終わったら家送るから、後ろで寝てて」
児相とは、県立南児童相談所のことだ。送る、ということは僕を家に置いて、母はまた出掛けるのだろう。
暖房が入ったのか、車内がぼんやりと温かくなる。ミラーに映る母の顔は、明らかに苛立っていた。そのことに、なにか土谷が関係あるのだろうか。
母の仕事で、児童相談所に関係があること。心当たりはふたつ。非行か、虐待。どちらも、想像することができなくて、僕は暫く呆然とした。
多分母は僕に話すつもりはないだろう。当人のプライバシーを守るために、この手の内容はとにかく守秘義務が多い。もしかしたら僕に土谷の写真を見せたことも、苦渋の判断だったのかもしれない。ルール違反を覚悟で、少しでも早く、彼女の身元を確認するための。
その後の電話の調子から行っても、車の速度から考えても、母が急いでいるのは明白だった。それだけ、緊急性の高い事態なのだろう。
聞いても教えてくれないだろう。そう思ったけれど、ただ黙っていることはできなかった。
「土谷さんに、何かあったの」
「……ごめん、言えない」
予想通り過ぎるぐらい予想通りの返事だった。それでも、知りたかった。
「土谷さん、昨日知らない人の車に乗ってたよ。運転してたのは、四十ぐらいのおっさん。土谷さんちの車じゃなかった」
ミラー越しにも、母の表情が変わるのがわかった。関わりのあることなのだろう。僕は続けた。
「昨日、いきなり授業中に様子がおかしくなって、飛び出してさ。探しに行ったんだけど見つけられなかった」
誰よりも子どもが好きで好きでたまらなくて、それで児童精神科なんて大変な分野を選んで、だからこそ昨今の現状を嘆き酒を飲んでは愚痴りまくる母が、土谷に不利益になるようなことをするわけがない。だから、話したほうがきっと土谷のためになるはずだ。特に、もしも大きなトラブルに巻き込まれているというなら。
「授業中って、なんかきっかけみたいなのは」
「わからない。文化祭の劇の台本で女子がありえないの書いてきて喧嘩になって大騒ぎになってるときだったけど、土谷さんはその喧嘩にも台本にも関わってなかったし」
「そう」
母の表情が、めまぐるしく動いているのが鏡越しにわかった。何かを考えているときの顔だった。間違いない。僕が土谷に対して感じた違和感が、疑問が、今回の母の仕事に深く関わっている。
ということは、土谷が虐待に遭っている? あの奇妙な母親からか?
それか、非行に走っている? あの土谷が?
けれど、非行ということを考えたとき、僕の頭にひとつの単語が過った。まさかとは思う。けれど、けれど。
「……援助交際?」
思わず声にした瞬間、母の肩がびくりと震えた。まさか。ありえない。――あって、ほしくない。
虐待の可能性はどうだ。あの母親は明らかに挙動不審だった。土谷が家にいると嘘をついていた。つまり、土谷が家にいないことを知っていて、それを知られては困るということか。ひょっとしてあの母親が、土谷に援助交際を強要して金を稼がせていて、昨日のあの男は、その客、とか――。
想像がどんどん広がっていく。一瞬目に浮かんでしまったものは想像と妄想の境目のような情景で、それを振り払いたくて、僕は続けた。
「昨日の帰り土谷さんちに忘れ物届けたんだけど、その時土谷さんの親が、土谷さんは部屋で休んでるって言ったんだ。でも、僕が怪しい車に乗った土谷さんを見たのはそれより後で、しかも土谷さんちと逆の方向から走ってきた。どうして、そんな嘘をついたんだろう」
その推測をしながら、僕は言った。母の反応を見る。少しの間沈黙して、母はぽつりと、しかしはっきりと言った。
「……土谷美月ちゃんについて、とりあえず知ってること全部話して。なんでもいい。あんたが些細なことだと思ってても、すごく大事な手がかりになるかもしれないんだ」
僕は頷いて、話せるだけ話した。魂が抜けた人形のような姿のことを、幽体離脱のことを、本人が脳の病気を心配していた、記憶の抜け落ちのことを、階段から飛び降りることを。