永遠のフィルター
家の内側でいくつもの鍵が上から順に閉められていく音を聞きながら、多分もう呼び鈴を押してもあの母親はこの扉を開けてくれることはなく、ましてや土谷に会わせてなどはもらえないのだろうなと思って、僕はどこか気持ちの悪さを抱えたまま、土谷の家に背を向けた。
わけがわからない。
突然いなくなった土谷のことも、あの母親のことも。一度奇妙に思えると、土谷にまつわるすべてのものに対する違和感が、徐々に、徐々に沸き起こってくる。
六年生の頃にあったという、今日と同じような出来事。
ここにいないかのように、ぼんやりとした様子と抜け落ちているという記憶。
階段から飛び降りるあの姿。
それらが気にかかるのは以前からだったけれど、今までに見えなかった不気味さのようなものがまとわりついて離れない。
見慣れたはずだったあの鍵だらけの玄関も、小学校の授業参観のときはどんな様子だったかがまったく思い出せないあの挙動のおかしい母親も、それと同じ類の気味の悪さをまとっていた。
どことなく寒気のようなものを感じながら、僕はすっかり陽の落ちた家路を歩いた。いつもだったら住宅街の中を抜けて帰るところだけれど、人気のない道が少し怖く感じて、表通りへと出た。普段なら怖いと感じたことすらなかった街灯のない細い道が、不安を煽って仕方がなかった。こんなに、暗かったっけ。
この住宅街から何本か細い道を越えて出た表通りは、一応この町のメインストリートということになる、まっすぐに伸びた国道だ。明るい、とは言わないけれども視界が十分に確保できる程度には街灯もあるし、夜八時までやっている地元の老舗スーパーもあるし、車通りはそれなりに多い。事務所なども多いので何かあったら助けを求めて駆け込める場所はいくつもあるし、そもそもこんなに人目もあって明るいところで、交通事故以外に危ない目にあったという話は聞いたことがない。そもそもそんなことすら気にも留めないような、正気を失った通り魔とかなら話は別だろうけれど。
消防署から響くサイレンは、六時を告げていた。小学校の間、門限が六時半だったせいか、この音を聞くと早く帰らなくてはと焦ってしまう。ここ数年、急激に忙しくなった母は、六時半にちゃんと帰っても家に居ないことが多いけれど。
荷物が片方だけになった肩は、やけに軽かったけれど、それでも気持ちは一向に晴れなかった。その代わりに、何か目に見えない重いものが、ずっしりとこの肩に圧し掛かっているみたいだった。
家に帰るために、もう一度中通りに入ろうと細い角を曲がりかけたそのときだった。
土谷がいた。
家で休んでいるはずの土谷美月の姿が、僕の目に飛び込んできた。
黒いワゴンタイプの乗用車が、表通りを走っていた。多分、五、六年ものだろう。このあたりではよくある形式の車だし、普段なら目に入っても意識に留まることはないだろう。けれど、その中に、土谷がいた。
僕は状況を把握できなかった。ビデオで録画されているかのように、その映像はちゃんと頭に残っている。後部座席で、制服を着たままの土谷が、シートベルトもしないで座っていた。
表情は抜け殻のようで、教室でぼんやりとしているときと、同じものだった。座っている、というよりも人形が椅子に置かれている様子に似た、まるで力が入らずに投げ出されたままの、細くて長い腕と脚。目は虚ろで、どこにも焦点が合っていない。車がハンドルを切るのにあわせ、その体はがたがたと揺れている。
車を運転しているのは、知らない男だった。年齢は、四十台ぐらいだろうか。土谷に似たところはまるでない。
車は、土谷の家とは反対の方向から走ってきていた。だから、僕がその家を出てから改めて出かけたわけではない。あのとき、土谷は家にいなかったのだ。
土谷の母親は、嘘を言ったのだ。
頭が混乱してきた。どうして、そんな嘘をつく必要がある? 普通に出かけているといえば済む話じゃないのか?
学校から電話をしたところ、土谷の母親は、土谷は帰宅していると答えたと先生は言った。本当に帰宅していたのか? その後で出かけたのか? だとしたら、どうして? なにもかも、ひとつもわからない。
そして、あの男は誰なんだ? 土谷の父親ではないはずだ。
さっきの車は黒いワゴン。あの家の車は、白いセダンだ。あの車は、土谷の家の車ではない。
どういうことなんだ。一体、土谷は学校から消えた後どこに行って何をしていたんだ?どうして、土谷の母親はあんな嘘を吐く?
わからない。わからない。一体なにがどうなっているんだ。
考えても考えても、全然思考がまとまらなかった。灰色の空から雨が落ちてきていることにも気づかずに、僕はただ、車が走っていった方向を見送っていた。学生服からじんわりと冷たい雨水が沁みて肌を冷やしても、僕はその場から動くことが、どうしてもできなかった。