永遠のフィルター
陽が傾いていく。どれだけ、僕はこのあたりにいたんだろう。学活は六時間目の枠だから、一時間半ぐらいか。
これだけ探してもいないなら、多分もうこのあたりにはいないのだろう。どこか建物に入ってしまっているのでなければ、ここにいないなら、安全なところにいるならそれでいいんだ。僕は学校へと人気の少ない道を引き返していった。
工場から聞こえる規則的な音は、終業時刻を迎えたのか先程よりも確実に減っていた。烏が群れを成して電線にずらりと並んでいる。こんなに、このあたりの道は長かっただろうか。とぼとぼと帰る道は、実感として往路よりも遥かに長く感じる。
学校に置きっぱなしの荷物を回収しなくてはならないし、先生にも抜け出した詫びと、事情の説明をしなければならないだろう。ただただ気が重い。
夕暮れの工場町を、飲み屋街へ向かう人たちと時折すれ違いながら歩く。時には楽しそうな人たちもいるけれど、大体はどこかくたびれた様子で歩いていた。常盤の町そのものみたいだと、猫背気味に歩くスーツ姿の人を見て思った。
教室に戻ると、机にかけておいたはずの鞄はなくなっていて、代わりに職員室に取りに来るようにという先生のメモが残っていた。防犯を考えれば当然だろう。
職員室で先生に会うと、僕はすぐに頭を下げた。それから、あの学活での出来事を、ざっと話した。脚本プロットのあんまりな内容に、鈴木たちが揉め始めたこと、その大騒ぎの中で突然土谷の様子がおかしくなって、そのまま凄い勢いで走り去ってしまったこと、追いかけて探したが、見つからなかったこと。
先生は叱らなかった。僕に荷物を返すと、「無断早退はもうするなよ」とだけ言う。
「土谷さんは」
そう尋ねると、先生はうっすらと笑って答えた。
「さっき家に連絡を入れた。ちゃんと帰ってきて家にいるそうだ」
「そうですか」
僕はほっと息を吐いた。良かった。初めてひとりで足を踏み入れたあのあたりは、予想していた以上に居心地が悪くて、怖くて、酒臭くて、あんなところに土谷が留まっていたらと思うと恐ろしい。
「そういえば、川口は一小だったよな。土谷の家は……帰り道沿いか」
ばらばらと、生徒調査表のファイルをめくり、僕と土谷のページを確認したのだろう。先生は呟いた。
「土谷の家、どこかわかるか」
「はい」
「悪いんだが、土谷の荷物を届けてくれないか」
これなんだが、と渡された鞄は、見た目よりずっしりと重たかった。振ると、がちゃりと金属の音がする。あの鍵だらけの戸を開けて家に入るための鍵束か、それとも知恵の輪か。どちらだろうか。
「わかりました」
「ああ、頼む」
先生は、特に詳しい話は聞いてこなかった。僕を首だけ動かして見送り、机に向き直った後姿はどこか疲れていたように見えた。そういえば、鈴木の脚本の件はどう収束したのだろう。明日登校すればわかるだろうか。
四階にある職員室から降りていく階段は、暗かった。あの日と違い、灰色の雲に覆われた夕陽は踊り場を照らし出してはくれない。
右の肩に自分の鞄を、左の肩に土谷のを掛けて、僕は階段を歩いて下り降りた。一歩歩くごとに、左の鞄から小さな金属音が響いた。
その音を聞くたびに、これは土谷の鞄なんだな、と妙に実感した。
土谷の家は、いつもと変わらない様子だった。鍵だらけの扉に、白いセダン。けれど、門より奥に足を踏み入れるのは初めてだった。
呼び鈴を押す。ピンポン、という音がして、数秒後に、「はい」とかすかな声がした。土谷に少し似た、しかしやや掠れた声だ。土谷の母親だろうか。
「常盤中一年三組の川口といいます。土谷さんの忘れ物を届けに来ました」
返事はない。がちゃんと受話器の置かれる音が聞こえた。切られたのか?
もう一度呼び鈴を押すのもうるさいかと思い、少しの間、ドアの前で待ってみた。大体一分ほど経っただろうか。ゆっくりとドアが開けられ、三十台前半ぐらいの女性が顔を見せた。強烈な香水の臭いが鼻をついて、一瞬頭がぐらりとした。
「……どうも」
土谷に良く似た、しかしかなり雰囲気の違う女性だった。顔立ちはよく似ているのだが、痩せすぎで、骨の形がはっきりと顔に浮かび上がっていた。表情には不安がはっきりと滲んでいる。ドアも、自分の肩幅より少し狭いぐらいの隙間しか開けておらず、自分の身を守るように、玄関の内側にいた。細い隙間から見ただけでもわかる、見るからに高そうな服と、宝石のいっぱいついたアクセサリーが目に付く。それが、おどおどとした態度や、特に立派でもない家や車と、酷く不釣合いだった。そもそも、それは家にいるときの服装にしては着飾りすぎのような気がした。
顔立ちはかなり整っているはずだ。それなのに、高そうな服やアクセサリーが、奇妙なほどに似合っていない。このおどおどとした、陰鬱な雰囲気のせいだろうか。
ひどく、奇妙だった。娘の同級生に取る態度だろうか。僕はどう見ても十代前半にしか見えないはずだし、常盤中の制服もちゃんと着ている。土谷の同級生であるかどうかを疑う理由はないはずだ。
こちらの様子を伺うような目は、同時に値踏みされているような感じがして、なんだか嫌な気分になる。
「美月の、忘れ物を持ってきてくださったそうで」
「あ、はい」
声もどこか弱々しく、それでいてはっきりと、必要なこと以外言いたくないといった気持ちが滲んでいるようで、それがなんとなく僕をも不安にさせた。土谷の鞄を差し出すと、それを受け取り、直ぐに室内へと取り込んだ。
「わざわざありがとうございました」
そう言うと、まるでドアを開けていると悪いものが家に入ってくるとでも思っているかのように、土谷の母は即座にドアを閉めようとする。慌てて、僕は声をかけた。
「あ、あのっ」
ドアの動きが止まる。ほんのわずか、顔よりも細い隙間から、土谷にかたちの似た目を出して、搾り出すように声を出した。
「まだ、何か?」
背筋が、ぞくりと冷たいものが走った。ここまでの拒絶を示されたのは、多分生まれて初めてだった。先ほどからもずっと一刻も早く帰ってほしそうな空気や、来訪をよく思っていないことは感じていたけれど、こうもはっきり突きつけられると、心の奥から寒気がするようだった。
気味が悪い。正直、そう思う。僕はなんとか声に動揺が滲まないように気をつけながら、尋ねた。
「土谷さんの様子は、どうですか」
土谷の母は、僕と一切目を合わせずに、淡々と答えた。痩せぎすの頬には、骨が浮き上がっている。
「娘なら部屋で休んでいるから会えません。きっと明日は登校するので、心配しないでください。……それでは」
何かを言う暇もなく、今度こそドアは閉じられた。上から順に、また鍵がかけられていく。閉じたドアには、まだあの強すぎる香水の臭いが残っている気がして、僕は頭を振った。
秋の夜風が、妙に冷たく制服の袖から入り込む気がした。正直、さっき土谷を探していたときと同じぐらい、もしかしたらそれ以上に気持ちがどんよりと重かった。
土谷の様子は、どう考えてもおかしい。
だけどそれ以上に、土谷の母親は、なにかが奇妙だ。