永遠のフィルター
どうしてそんなことを僕が知っているかといえば、春休みに父が「社会科見学」と称して僕をあの界隈へ連れ出してくれたからだ。勿論そこで飲み屋に入ったりしたわけではない。ただ父はあの界隈の様子を僕に見せて、そのままラーメンを食べて普通に家に帰った。父も母も分野は少々違うがどちらもかなり社会福祉系の領域に近いところに職を持っているせいか、小さな頃からなんとなくそういう風景を見たり、話を聞いたりすることは多かった。母の場合、仕事の愚痴、という形で語られることが多いけれども。
そんなところに行ってどうするんだ。特に女子は絶対に近づいてはいけないと、小学校の頃から何度も先生に言われている。あんなパニック状態で、ひとりでいたら危ないんじゃないか。
僕は老婦人に大急ぎでお礼を言うと、その方向へ向かって走った。もし警察に見つかって補導されそうにでもなったら、ちゃんと事情を話して手伝ってもらえばいい。だけど、まっすぐに警察に行くのは少し気が引けた。そこまで大事になっては、土谷が停学とかになってしまうんじゃないだろうか。できるなら、事を荒立てずに、土谷を学校へ連れ戻したかった。戻りたくないというなら、どこかもうちょっと落ち着いた場所で休ませたり、家に帰ったっていいのだし。
飲み屋街のあたりは、学校から一キロほど離れたところで、その間は工場がいくつか立ち並んでいた。これも、中から聞こえる金属を切断する音や、立ち上る煙が、僕の思い出の中にある数年前のそれよりも、随分小さくなっている気がする。一応どこかで土谷が休んでいる可能性も頭において、周囲に気をつけつつ、僕は走った。
十数分経って、工場街を抜ける。途端に、むわっとした生暖かな空気が、僕に襲い掛かってくるようだった。空気そのものにアルコールが含まれているみたいに、町自体が酒臭い。
昼間だというのに、夜のような、重たい、どろどろとした空気が体にまとわりつく。もしかしたら、ここには夜も昼もないのかもしれない。結局意識がある間はずっと酒を呷っているような人に、時間の経過は関係ないだろう。割れた窓をガムテープで修繕した形跡のあるスナックからは、中年男性の枯れた声で、演歌が聞こえてきた。
ここまで、土谷を見ることはなかった。工場の中に入り込んだりしたのでもない限り、あの道からここまでは一本道だ。このあたりのどこかにはいるのだろう。もしかしたら、ここもただただ全力で走り抜けて、もう別のところにいるのかもしれないけれど。
ブロックに座って罅の入ったコップでなにか透明な酒を飲んでいる男の目が、僕に向けられる。珍しいのだろう。上から下まで観察されているようだった。その人だけじゃない。通りがかりにすれ違う人もみんな、珍しい生き物を観察するような目で、僕のことを見ている。なんというか、物凄くいたたまれない。白目がどこか黄色く濁っている人が多い気がするのは、肝臓を病んでいる人がたくさんいるということなのだろうか。
僕でさえこうなのだ。元々、この界隈は働いている人たち以外の女性は少ない。ましてや中学生の女子など普通は近寄らないだろう。土谷は、相当目立っていたのではないだろうか。
聞き込みをしようと思って、少し迷った。できれば素面の人がいい。それから、危なっかしい人じゃないほうがいい。このあたりは暴力団関係者や、チンピラと呼ばれるタイプの人もたむろしている。うっかり声をかける相手を間違えれば、僕も危険に晒されそうだ。
僕はできるだけ落ち着いた様子を装って、できる限りまともそうな人を探した。一番近くにいる人は、焼酎の瓶を抱えているから除外。下水溝に向かってリバースしている人は論外。あそこで煙草を吸っているサングラスの人は、見るからに堅気ではなさそうだから距離を置く。
そんな調子で見つけ出した人は、去年失業して、一ヶ月ほど前に家を失ったばかり、という中年の男性だった。地元選出の国会議員のスキャンダルに絡んで、勤めていた会社が倒産してしまったらしい。少し話して、様子のおかしいところはなかった。僕は、常盤中学の制服を着た女の子がこのあたりを通らなかったか、と聞いてみた。
「常盤中の制服は知らないが、セーラー服の女の子なら何人か見たよ」
男はあっさりと答えて、それからふうとため息をついた。
「世も末だね」
「……そんなにたくさん、こんなところで何をしてるんですか?」
男は奇妙なものを見るように僕の顔をじっと見て、それから、答えた。
「ホントの学生かどうかは知らないよ。制服着てるってだけで、需要はあるんだ」
「需要?」
「女としてだよ」
そして、はぁ、とまた息を吐く。
「意味がわからないならまだ早い。これ以上は言わないよ」
需要。なんとなく、予想はついた。けれどどうにもしっくり来ない単語を、僕は言葉に載せてみる。
「援助交際ですか」
「ま、そういう類のもんだろうな」
言葉は知っている。母の患者にはそういった種の非行に走っている人も少なくはないと聞く。中学生どころか、ヘタをすると小学生ですら無縁とはいえないらしい。
それでも、どうにもピンと来ない。つい、数ヶ月前まで僕らはランドセルを背負って小学校に通っていたのだから。
小学校の頃は、それこそ、保健体育の教科書か、どういうわけか雨の日に限って道端に開かれた状態で落ちている雑誌ぐらいでしか、そういう性的な情報に触れたことはない。別にうちの親は僕がエロ本を買ったりしてもそれを厳しく規制するようなタイプではないけれど、あの手の本を買うお金があったらそれを僕は全部文庫本に注ぎ込んでいたのだ。ネットのほうは、ペアレントコントロールが設定されているため表示できない。それはどうやら親たちの意図したところではなく、基本的にパソコン関係が苦手な母が、業者の言うままに設定した結果そうなったらしい。患者のイジメ問題に関わって学校裏サイトとやらを探していた母が「言われた通りのアドレスに行ったのになんか表示されないんだけど、どうすればいいかわかる?」と僕に聞いてきたほどだ。ペアレントコントロールの解除の仕方を小学生の息子に尋ねる母親は、あまりいないと思う。もし僕が普通のエロサイトを見ていたとしても、多分母は特にやめさせようとはしなかっただろう。それが犯罪性のあるものとかだったら別だろうが。
それはともかく、僕らぐらいの年代で頻繁に見られるタイプの非行であるはずなのに、実際にそういうことが行われているのだと言われても、まるでピンとこなかった。想像がつかない。お金のために、そういうことをすることも、それ以前にそういった行為自体がまだまだ遠いもののような気がして。
「そういう目的じゃなきゃ、若い女の子はこんなところ来ないさ。正直、危ないし」
男は言う。「そういう目的の子だと思われて、変な男に絡まれたりしたら嫌だろうし」
僕は、小さく頭を下げて、土谷を探し始めた。勢いのままここを抜け出してくれているならそれでいい。だけど、もし危ない目に遭っていたら。
僕はあたりを必死で見回した。いない、いない。時折人にそれらしい子を見なかったかどうかを尋ねたけれど、あてになるような情報はなかった。