永遠のフィルター
「怖かったけど、でも同じクラスだし、美月ちゃんは保育所からずっと一緒だから、一応そのあとも普通にしてようと思って、私も忘れたことにしようと思ったんだけど、でもやっぱり、いつまたあんなふうになったら、って思うと怖いし、それに、そのあとから少し美月ちゃん、変になっちゃったんだよ」
「魂抜けたみたいにぼんやりするようになった、とか」
言うと、彼女ははっと顔を上げた。
「そうそれ。川口君、気づいてたんだ」
「まあな。五年生のとき同じクラスだったけど、あんな感じじゃなかったよな、と思って」
「うん」
彼女は頷く。その変貌の前後を見ていた人間と、僕が中学に上がってから見た印象とは、そう違うものではないようだ。
「別にみんな美月ちゃんをいじめたりはしなかったよ。怖かったから、ってのは、やっぱあると思うけど。でも、なんかいつも上の空だし、授業中とかにあったことも、忘れちゃってたりしたし。ほら、うちのクラスで理科の実験中に坂本君がアルコールランプ引っくり返して机一個焼いたの知ってるよね」
「うん」
クラスが違ってもそのことは知っていた。全校生徒はグラウンドに避難させられ、消防車が何台もやってくる大騒ぎになったし、同じ実験をそれより後にやった僕らは、注意事項として散々その話をされた。幸いひとりも怪我人が出ないで済んだけれど、ひとつ間違ったら戦後の物不足の時代に建てられたという、映画の学校の怪談で旧校舎シーンのロケに使えそうなオンボロの木造校舎はきれいさっぱり全焼して、念願の立替工事が行われてしまうところだっただろう。
「美月ちゃんは、坂本君と同じ班だったんだよ。なのに、覚えてないの。みんなで避難して、待ってたら、突然『なんであたしたち外にいるの?』なんて聞くんだよ。さすがに、美月ちゃん頭おかしくなったと思って」
一瞬、口を開きかけて閉じる。何と言おうか迷っているように僕には見えた。僕は黙って続きを待った。
数秒のち、少し躊躇いながら、彼女は口を開いた。
「流石に、怖くて、気持ち悪くて。どうせ美月ちゃんはずーっと、ここにいないみたいにぼんやりしてるし、だから私たちも、美月ちゃんをいなかったことにしよう、ってなってったの。誰が言い出したんでもないし、誰も口に出しては言ってないよ。美月ちゃんから話しかけてきたら、普通に話すし。でも、きっとみんな美月ちゃんが怖いんだよ。わけわからないから。だって、キレた理由も全然わかんないし、キレたらなにするかもわかんないし」
僕は、彼女の発言の中の土谷と、僕の見た土谷の姿を照らし合わせていた。
土谷の様子がおかしくなった時期は、多分僕の印象と一致する。僕が知っている五年生までの土谷と、今年見るようになった土谷の様子は全然違う。その契機が六年生の頃にあったという彼女の発言は、すんなり腑に落ちる。
キレる理由がわからない。それも、今回と同じだ。ただ、あの騒ぎの中でパニックを起こした、というのがごく普通の授業中に暴れたという六年生の頃の出来事の状況とは違うけれど。あの時クラスの視線はみんな鈴木たちに向いていた。前後で土谷に何があったのかを見ていた人はいないだろう。だから、誰かが土谷に何かをしていなかったかを確かめることはできない。けれどあの大騒ぎの中わざわざ土谷になにかするような奴が、普段の生活の中で僕の目につかないはずもないと思う。少なくとも授業中や休み時間に、土谷に話しかけている人を見た覚えはない。
「もし美月ちゃん暴れてたりしたら危ないから、やめたほうがいいよ」
その言葉を、頭はちゃんと理解している。だけど。
「ありがと。でも行ってくる。暴れてるならそれこそ一人だったら危ないし、クラスメイトだろ、僕たち」
そう言って、親切な彼女に背を向けて、僕は走り出した。けれど、あてはなかった。廊下を全力で走り抜ける。職員室の方から駆けてくる学級委員と担任の先生とすれ違った。何か言われた気がしたけれど、耳に入らなかった。
昇り階段を一段飛ばしで上がっていく。四階へ、それからそこから先へ続く防火扉へ。だけどいつも土谷が屋上に上がる時は開錠していく、四階側からしか開け閉めできない鍵は、しっかりとしまったままだった。何度かがちゃがちゃ動かすけれど、僅かに揺れるばかりだ。土谷は、ここじゃない。
階段を一気に駆け降りた。他に学校内に土谷のいそうな場所の心当たりはなかった。外にも勿論ない。僕は、土谷のことを全然知らない。
今頃教室はどうなってるだろう。土谷が飛び出したこと、僕がそれを追って出たことはどう説明されたのだろうか。ある意味、これで鈴木たちの騒動は少しは落ち着いたんじゃないかとは思う。
でも、そんなことより、土谷、土谷。どこにいるんだ。
校内には教室と屋上以外に土谷の行きそうな場所の心当たりはなくて、僕は外へと飛び出した。家に帰ったのだろうか。そもそもどこに向かってるのかが全然わからない上に、土谷は足が速い。あてずっぽうで、とりあえず商店街の方へと走った。
真昼間のシャッター商店街は、どことなく淀んだ空気が満ちている。僕が小さな頃はもうちょっと賑やかだった気がするのだけれど、数年前に某大型スーパーが近くに進出してきて、元々体力のなかった店は潰れた。そのスーパーも去年撤退し、残ったのはその廃墟と、シャッターの下りている店ばかりになった商店街だけだ。田舎に出店しては地元の店を潰し、結局利益にならないからと去っていく大手スーパーは、まるで特定外来生物のようだ。
人通りの少ない商店街を、僕は走った。空はどんよりと暗く、今にも泣き出しそうに見える。人目を引いている自覚はあった。平日の真昼間から制服姿の中学生が全力疾走していたら、それは目立つだろう。そこまで考えたところで、それは土谷も同じであることに気がついた。
走るのを止め、周囲の人に土谷らしき女子を見なかったかを聞いてみた。けれど、なかなか土谷を目撃した人はいない。焦りばかりが募った。そもそもこっちではないのか。
学校側へと引き返しながら、すれ違う人に僕は同じ質問を繰り返した。
戻って、戻って。やっとそれらしい証言を得られたのは、学校の近くまで大分戻ってきてからだった。どうして初めからそうしていなかったんだろう。僕が方向を誤ったのは、かなり最初の分かれ道でのことだったみたいだった。
学校のすぐそばの住宅で、庭先で花の手入れをしている老婦人が、制服を着たままの女の子が凄い勢いで走っていった、と指差したのは、飲み屋が立ち並ぶ地区の方角だった。
あのあたりは夜は勿論日中でもあまり柄の良い土地とは言えず、子どもたちだけで行くことは固く禁じられている。そもそも行く用事自体がほとんどない。あのあたりにある常盤で一番美味しいらしいラーメン屋へは家族と一緒に来たことがあるけれど、その他にはくたびれた飲み屋が何軒か軒を連ね、そのほかに、スナックだとか、いかがわしいホテルだとかがあるばかりだ。
ここのところの景気の悪さのせいか、それとも元々大した産業がない田舎だからか、このあたりの失業率はかなり高いらしい。そのためなのか、昼間からあのあたりで飲んだくれている人は少なくない。家すら失ったらしい人たちの姿もあった。