永遠のフィルター
そしてその件をきっかけに彼氏とはぎくしゃくするのだけれど、現実ではありえないだろこんなの、いくら創作とはいえ、こんな酷い事件をこんなに簡単に取り扱うなとさすがに一度うちの母親のお説教を喰らわせたほうがいいんじゃないかと思うぐらいあっさりと簡単に立ち直り、まぁいろいろあって元の鞘に納まる。イジメの首謀者だった女子は逆にイジメられて学校を辞める。このあたりも、いろいろとやばそうな予感は若干する。
平和な日々を取り戻したと思ったらまたもお約束の大イベントが発生する。主人公がデート中に倒れ、難病であることが発覚する。重い心臓病で、移植以外では助からない、らしい。人生最後の思い出にと学校をさぼって彼氏とふたりであちこち旅をする。随分元気だな、そして親はよく許したなと思うけれど、多分そこは目をつぶるべきなのだろう。
そして彼氏の腕の中で息を引き取る………かと思いきや、目覚めたのは病院。いつの間にか移植されていた心臓、勿論ドナーは彼氏、というわけだ。そして残された主人公は強く生きていく、……彼氏が残してくれた心臓と、残してしまった子どもと共に。
クラスは今阿鼻叫喚の修羅場と化していた。気を利かせてもう一人の学級委員が教室を飛び出した。逃げ出す理由もないので、多分先生を呼んできてくれるのだろう。
正直、一部の連中が大騒ぎするほどエロくはない、と思う。あの程度で立ち直るなら、彼氏とぎくしゃくするきっかけとなる事件はいくらでも別のものに差し替え可能だろう。だけど小学生の頃うっかり教室で「失楽園」を読んでいただけであだ名が「エロス」にされるぐらい、男は意外とそういうネタに敏感だ。ひょっとしたら女子のほうが、その手の描写に対する耐性は強いのかもしれないとふと思う。少女漫画はエロいというし。
さて、どうやって事態を収拾しよう。結局脚本はどうすればいいんだろう。例のシーンの差し替えと、いじめっ子がいじめられる側に転じるあたりをなんとかすれば、一応許可が出ないこともなさそうな気がしないでもない。あと、ラストシーンも変えなくては。しかし重い病気で死に掛けてる女の子を妊娠させるとは何事だ。寿命を縮めるつもりか。そもそも高校生だろう。……ひょっとして、どうせすぐ死ぬと思ったから避妊しなかったのか、とかいろいろと考えて、考えるだけ無駄だということに気づく。そうかこれはファンタジーか。
そんなことをぼんやりと考えているうちに、とうとう鈴木が金切り声をあげて泣き出した。こういうとき、女子の涙はずるいと思う。どう考えても今回の件は鈴木とその仲間たちの暴走が原因のはずだけれど、多分先生が来たら、怒られるのは最初に彼女たちをはやしたてた男なのだ。
できればそうなる前に事態を少しは収拾したい。せめて、落ち着いて先生に事情を説明できる程度には。でもどうすればいいのかわからない。落ち着けといったところで、どっちの味方をするんだとか尋ねられたらそれこそ面倒だ。
どうしよう、何か糸口はないか。そう思って教室を見回したところで、僕は、土谷が呆然と騒ぎを見ていることに気がついた。手には、例のプロットの紙が握られている。顔色が悪い。表情も、あの屋上にいるときのような小さく笑った顔でも、魂の抜けたようなそれでもない。
「土谷さん、どうかした?」
僕は、土谷に歩み寄った。歯が、がちがちと鳴る音が、この喧騒の中でも耳に入ってきた。
歯だけじゃない。手足も、がたがたと震えていた。
「土谷さん」
声を掛けて、手を伸ばした。瞬間。
「嫌だっ」
手に予期しない衝撃があった。土谷に叩かれたのだと気づくのに、数秒かかった。ばしっという音が、遅れて聞こえた気がした。叩かれた跡が、赤く残っていた。じんじんと手が痛む。
その音に、悲鳴に、あれだけ騒がしかった教室が静まり返った。土谷と目が合わない。どこを見ているのかわからないけれど、だけどいつもとは違う。土谷は、何かを見ていた。
僕は驚いて、動けなかった。何が起きてるんだろう。どうしたんだ。
土谷が何かを叫んだ。なんて言ったのかは聞き取れなかった。誰も土谷に近寄らない。声も掛けない。叫びなのか悲鳴なのかも、よくわからない。
そのまま、土谷は教室の外に飛び出していった。走り出すとき、土谷は周りをまったく見てはいなかった。まわりにある机や椅子にぶつかりながら走り、土谷の駆け抜けたあとには、いくつかの倒れたそれらが残されていた。
台風が通り過ぎた後のような、妙にしんとした空気が、教室を満たした。誰も動けなかった。先ほどまであれだけ揉めていた鈴木たちも、ただ、黙って立ち尽くしていた。その涙も止まっていた。
何秒ぐらい、そうしていただろう。数秒だったかもしれないし、一分ぐらいあったかもしれない。土谷に叩かれた手がじんじんと痺れたように痛んで、僕はやっと、土谷を追いかけなくてはと思い立った。慌てて土谷が出て行った教室前方のスライド式のドアを越えて廊下へと飛び出す。どこへ行ったんだろう。屋上に出るには天気が悪いし、と思っていると、
「美月ちゃん探しに行くの?」と、追いかけてきたひとりの女子に呼び止められた。今回の件で騒ぎの中心にいた、鈴木の取り巻きのひとりだ。鈴木と同じく、小学校が一緒なので、それなりには知っている。彼女は、少し迷ったように下を向いてから、目を合わせないで続けた。
「やめたほうがいいよ」
「なんで」
「美月ちゃん、ちょっとおかしいから」
一瞬ちらりと周囲に目をやってから、彼女はそう言った。周りで誰かが聞いていないかを確認したのだろうか。
「おかしいって?」
彼女は先程よりも少し長く目を左右に動かして、それから、小さな声で続けた。
「川口君、六年生のときうちらとクラス違ったよね?」
「ああ」
「じゃあ、美月ちゃんが突然キレて、鋏振り回して髪の毛切ったことも知らないよね」
「えっ……」
僕は自分の耳を疑った。あの穏やかそうな土谷がキレて、鋏を振り回して、髪の毛を切った。
「髪って、自分のか?」
「うん。だから、みんな黙っておくことにしたんだよ。さすがに他の子の髪の毛だったら、いくらクラス違ったって、広まってたと思うし」
「きっかけは」
わからない、と首を横に振った。
「授業中だったし、別に誰かが美月ちゃんにちょっかい出したってこともない。私、美月ちゃんの後ろの席だったから間違いないよ。普通に授業受けてたのに、急にがたがた震えだして、大声出して暴れて、急に自分の髪切ったりしてわめいたりして、最後は先生が抑えて保健室に連れてった。今でもどうしてそんなことになったのかなんて、全然わかんない」
「……それで、土谷さんはどうしたんだ」
「そのまま早退して、確か、次の日はちゃんと学校来たと思ったけど、そんなことなかったみたいに、普通にしてて、……正直、逆に怖かったよ。なにもなかったみたいに、全部忘れちゃったみたいに、本当に普通でさ」
忘れたみたい。
その言葉が、僕の中で妙に引っ掛かった。そんなこと、土谷本人も言ってなかったか?