永遠のフィルター
僕は、多分表情に出してしまったのだろう。それを見た土谷の顔がますます曇ってしまう。
人によって脳のありようは違う。だから、もし生まれた時からそうなら、ここまで生きてきたんだ、なんとか大丈夫なのだろう。
だけど、少なくとも僕が知っている五年生までの土谷は、あんな風にぼんやりしてばかりいる人ではなかった。土谷自身も、ここ二年のことだと言っている。
こうして話しているときの土谷は、昔と特に変わった気がしないのに、あのどこを見ているのかさえもわからない時の彼女は、違う人間、或いは人間ですらないみたいだった。まるで、人形のような。
「頭が痛かったりとかは、しないのか?」
「それはないよ」
「物が二重に見えたりとかは」
「普通に見えてるけど」
「手足が震えるとか、立つのが難しいってことは……ないな」
「うん」
以前暇潰しに母の書斎で読んだ脳神経科系の本に載っていた、脳に関する重大な病気でよく見られるような症状をいくつか挙げてみたが、ひとつも当てはまるものはなかった。
「運動神経は、相変わらずいいしな」
随意筋の制御にも問題は見られない。記憶が曖昧な時以外の、今のようにちゃんと意識がはっきりしている間は、知覚にも問題はないらしい。
「うーん」
なんなんだ、一体。意識が異常に途切れがちなのと、記憶がはっきりしないこと以外は、特に異常な兆候はわからない。勿論、専門家が見たならば見つけられるのかもしれないけれど。僕の知識なんて本で少し読み齧っただけのものだ。
「凄い綺麗に跳ぶよな。何か運動やってたっけ」
体の具合は悪くなさそうなのだけれど、と思ったときに、頭に浮かんだのは土谷の跳ぶ姿だった。
無駄のない助走、タイミングをしっかりと掴んだ踏み切り、跳んでいるときの姿勢のバランスの良さ、着地の瞬間の、猫のようにしなやかな動き。どれをとっても、全身の筋肉が一体となって動いているようだった。
「うん。六年生までは体操やってたんだけど、やめちゃった」
「そうか」
言われてみると、しなやかでバランスの良い土谷の身体付きは体操向きのような気がする。ただ、小学校も高学年になってくると、学年に一人ぐらいは全県代表として東北大会に出場するレベルの奴がいる。常盤市以外に県内で子どもの器械体操に熱心な地域がないからという少し残念な理由で、市内でトップクラスの成績を取れれば、まず間違いなく東北大会ぐらいまでは行けるのだ。土谷が全校朝会で紹介された覚えはないから、そこまでではなかったのだろう。
「幅跳びとかは?」
「結構得意だよ。やってみせようか?」
僕はぶんぶんと首を横に振った。こんな場所で走ったり跳んだりされたら、僕のほうが心臓をやられそうだ。
正直、僕は高いところが好きではない。怖い。この場所だって、こんなことでもなければ来ることもなかったのだろう。土谷が階段から跳ぶところを見ていなかったら。そして、誰も来るはずのないこの場所へ、向かうところを見なかったならば。
「じゃあ、陸上記録会のときに、記録表見せるね。あたし、走り幅跳びに出るから」
そう言って、少し誇らしげに笑う表情からは、さっきまでの不安の影はほとんど消えていた。
隣でかちゃかちゃと知恵の輪を弄る音が聞こえる。僕はごろごろしながら観光ガイドを眺めつつ、実在の人物・団体・事件などには、いっさい関係ない日記風文章の執筆に取り組んでいた。今日は完全にここで寛ぐつもりだったのだろう。土谷の手提げの中にはぱっと見ただけではいくつあるのかわからないほどの知恵の輪が入っていた。形も大きさも様々で、見た目からでは知恵の輪だとわからないようなものもある。
難しい知恵の輪に集中している時の土谷は、無口だ。けれど、学校でずっと、ぼんやりと黙っている時とは違う。ちゃんと土谷はここにいるし、話しかければ反応する。意識はある。それを、知恵の輪に注いでいるだけで。
時折、例えば知恵の輪が解けたときのように、ふっと意識がそれから離れた瞬間、土谷は僕のほうを見たり、書いている日記を覗き込んだりした。
「あれ、川口君お祭り行ってたの?」
「行ってないよ」
「え」
「……行ったことにしといて」
そう言うと、土谷は「そっか」と言って、にやっと笑った。「宿題、ちゃんとやってなかったんだ」。
「土谷さんは? 日記ちゃんと書いてるのか?」
「うん」
しかし、そう言った瞬間、少し表情が曇った。
「でも気づいたらもう夜だったりとか、朝だったりとか多いから、ほとんど『宿題をやってました』と『知恵の輪で遊んでました』と、『本を読んでいました』ばっかりなんだ」
「ここに来てる日は? もしかして『屋上の鍵を開けて忍び込んで、昼寝してました』って書くのか?」
「書くわけないよ!」
少し茶化すと、慌てたように飛び起きた。
「バレちゃって、バリケードとか作られちゃったら入れなくなっちゃうもん。川口君も、絶対、秘密だよ」
少し困った顔で顔の前に指を立てて言う仕草が、妙に子どもっぽくて、やけに鮮やかな印象で僕の頭に刻まれた。
「わかってる。絶対言わないよ」
誰かと秘密を共有する感覚が、久しぶりで楽しくて、僕は素直に頷いた。
自転車で城址を探検した夏の思い出をでっち上げたあたりで、陽がもう大分西へ傾いていることに気がついた。ノートの文字が、だんだん読めなくなりつつある。
「僕、そろそろ帰るよ。土谷さんは?」
「あ、もうそんな時間?」
振り返る土谷のそばには、解き終わった知恵の輪が山と積まれている。一体いくつ解いたのだろう。それ以前に、いくつ持っているんだ。
「そうだね、あたしも帰るよ」
知恵の輪と、寝転がっていたシートを手提げの中にしまうと、土谷は立ち上がり、皺のついた制服のスカートを少し直した。僕も、うつ伏せの体制で服の全面についた汚れを手で払う。
ふと海岸のほうを見れば、やたらと大きな夕陽が、海の彼方へと沈んでいくところだった。松林と海と赤い陽のコントラストが、絵のように鮮やかだった。
土谷の白いセーラー服が、同じ色に染め上げられている。僕はふっと、あの階段で土谷を見かけたときのことを思い出した。
元通り鍵を掛け直して、階段を下り、できるだけ人目につかないようにして外へ出た。幸い、制服を着ていないことを誰にも咎められることはなかった。
家の方角が同じなのだし、特にばらばらに帰る理由もなく、中学から家のある方角への道程をふたり並んで歩いた。土谷の家は、僕の住む地区よりひとつ学校寄りの町内にある。普段は近道を通るので土谷の家の前は通らないけれど、ここまで来て「じゃあこっちから帰る」と言うのもなんだか悪い気がして、土谷の家の前を通るルートを選んだ。学校に提出した調査票では、僕は本当はこの道を通って通学していることになっている。
ここを通るのは久しぶりだった。入学して直ぐの頃は毎日通っていた道だけれど、ゴールデンウィークに差し掛かる頃には近道開拓も終わって、だからここを通るのは大体三ヶ月振りになる。