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なつきすい
なつきすい
novelistID. 23066
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失われたポン菓子を求めて

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 ほっと一息をついていると、片手をきっちりと今度こそ離すことのないよう子どもの手とぎっちりと繋ぎ、もう片手に買い物を積んだそりを引いた母親が、早足で寄ってきた。
「本当にありがとうございました! 本当にもう、うちの子、死ぬところで、不注意でまったく……」
 頭が混乱しているのだろう。母親の言葉はやや支離滅裂だった。それでも、子どもが助かったことを、心底喜んでいるのがわかった。
「なんも、助かって良かったです。今度からお母さんの手、離したらだめだよ」
 まだ泣いている子どもに目線を合わせ、そう言うと、その子は小さく頷いた。
 よし。あとはもう大丈夫だ。視界が全くなくなるほどの地吹雪も、少しずつおさまってきた。問屋さんの閉店時刻まで、猶予はあまりない。急がなくては。
 何かお礼を、と言われた気がしたが、お気になさらず、と返して私は走った。まだ行程の半分以上が残っていた。視界が大分回復してきたから、行ける。間に合う。
 極力信号の少なそうな道を選んで街を駆け抜けた。雪が晴れてくると、陽がほとんど落ちかけているのがよくわかった。日没までに妹の結婚式から戻ってこないと親友が殺されてしまうのだったっけ? 私には妹も弟もいないけれど。
 ひたすら走った。転ばない程度に走った。一度滑ってしりもちをついたが、そのときの勢いを利用してタイムロスなしにそのまま立ち上がってまた走る。
 急ぐんだ。セリヌンティウスが死にはしないが、営業時間が終わってしまう。
 
 
 なんとか店にたどり着いた時、大きな段ボール箱を抱えた人たちとすれ違った。PTAのおばさん風の人たちだ。学校行事か、町内会の雪祭りかなにかのお菓子を調達しに来たのかもしれない。そういえば子どもの頃、ラジオ体操に夏休みの間休まず参加すると、最後にたくさん駄菓子をもらえた。もしかしたらここで買っていたのかもしれない。
 ここなら確かに売っていそうだと、期待に胸が高まった。一体どんな規模のイベントを開催するつもりなのか、大きな箱を抱えたおばさんたちが何人も何人も店から出てくる。
 それらのおばさんの中に、「にんじん」と書かれた箱をいくつも抱えている人の姿があった。生野菜も取り扱っているのかとも一瞬思ったが、それが私の求めてきたポン菓子の商品名であることに、直ぐに思い至った。
 嫌な予感がした。私は店内をレジに向かって一直線に早歩きした。まるで物凄く計画性のある泥棒に侵入されたあとのように、棚の何箇所かが、整然と空っぽになっていた。がらんどうになった段の下に、商品名と価格の書いたタグが貼られている。ああ予想通り、そこにはここは八百屋とか見紛う商品名が、しっかりと書かれている。
 売り切れ、だった。
「あの、これ、他に在庫はないんですか……?」
 最後の希望を求めて店員さんを捕まえて聞いてみるも、ここにあるきりです、という、申し訳なさそうな返答があっただけだ。その返事の後半は、私の耳を右から左へと通り抜けていくようだった。なにもかも、もはやどうでもよかった。
 終わった。もう他にこの街で、ポン菓子を売っている心当たりはなかった。生協にもない、コンビニにも置いていない、スーパーでも見つけられない。他に駄菓子を取り扱っていそうな場所に、心当たりはなかった。最後の手がかりが、この問屋さんだったのだ。
 今度こそ、本当にもう当てがなかった。太陽も暮れている。もう、これ以上行ける場所はない。私はがくりと膝をついた。目の前が、真っ暗になっていった。
「あの、明日には入荷しますよ」という店員の声も、救いにはならなかった。明日は一限から講義がある。明日入荷するのだとしても、買いに来れるのは夕方だ。明日のおやつに、ポン菓子を食べることは、かなわない。
 どうしてなのだろう。別に、東京の青山の高級な菓子店で売っている一個四百円ぐらいもするようなマカロンが食べたいとか、秋田の唐土が食べたいとか、時々デパートの横浜中華街展に出てくる、楊貴妃も食べていたとかいう水あめを練ったような高級そうなお菓子が食べたいとか、そんな無理難題を言ったつもりはない。もらえるものなら食べたいけれど。子どもの頃、ごく当たり前にどこにでも売っていた、駄菓子が食べたかっただけなのだ。なのに、どうしてこんなにも手に入らないのだ。特に売り切れのタイミングといい、ここまで来ると誰かの嫌がらせとしか思えない。けれど別に私が明日ポン菓子を食べたところで、損をする人がいるわけもないだろうに。
 どこをどう歩いたのかすら思い出せない。気づけば自宅方面へと向かう地下鉄に乗り込んでいた。帰宅ラッシュの車内は、疲れた雰囲気の人で溢れていた。仕事に疲れた人もいれば、恋や人生に疲れた人もいるのだろう。私も、その疲れた人々の中のひとりだ。なにもかもに疲れた。
 どうしてこんな結末になったのだろう。ただ、私はポン菓子を買いたかっただけなのに。 深く深くため息が漏れた。同時に、物凄い音を立てて腹の虫が鳴いた。そういえば、今日は昼食を食べ忘れていたことを、今更思い出した。気づいたら途端に侘しくなった。今の今まですっかり忘れていたというのに。
 今日私は、一体何をしたというのだろう。昼食さえ摂たずに街の中を走り回り、強盗と戦い、吹雪に耐え、交通事故に遭いかけて、結局ポン菓子を手に入れることはできなかった。今日の午後は、結局目的を果たせずに終わってしまったのだ。
 ひどい徒労感だった。何も考えたくなかった。ただただ、私の思考に浮かぶのは、「おなかすいた」の六文字だけだった。
 駅から家までは歩いて一キロぐらいだ。とても、何も食べずには帰れる気がしなかった。たとえ、家に帰ったらすぐに晩御飯になるのだとしても。
 くたびれたおっさんや降車駅に地下鉄が止まっても携帯の画面から目を離さない制服姿の女の子たちと一緒に、地下鉄の扉からホームへと吐き出された。そのまま、普段は乗らないエスカレーターに上まで運ばれ、冷たい風がびゅうびゅうと音を立てて吹き込む階段から、外へと出た。
 ここのところの不景気で廃墟と化しかけていたテナントビルは、少し前から百円均一ショップになった。けれどあまり人が入っているところを見かけないので、再び廃墟となる日もあまり遠くはないのかもしれない。それでも板チョコぐらいは売っているだろうと思い、私は自動ドアを潜った。
 レジ前に、駄菓子のコーナーがあった。三枚で二百円の板チョコを手に取り、レジに並ぼうとした瞬間。
 棚に積まれた橙のセロファンが、目に飛び込んできた。
 一瞬、時が止まったかと思った。
 細長い三角錐状のフォルムの袋に、ぱんぱんに詰まった白い小さな細長い粒。間違いない。あれこそが私がずっと求め続けたポン菓子だ。やっと、出会えた。