失われたポン菓子を求めて
昏倒した男を縛り上げた後、万一逃げられたときのために目出し帽を外してみた。多分三十代後半と思われる男の鼻の下には、千葉ロッテマリーンズの里崎選手とほぼ同じ形状の大きなホクロがあった。なるほど、身長や体型などにはあまり特徴らしい特徴はなくとも、これを見られてしまえばわりと簡単に個人が特定されそうだ。世間様に顔向けできないようなことをするのならば覆面は必須だろう。
警察を出て、とりあえず目に付いた地元資本のスーパーにも入ってみたが、目当てのものはなかった。駄菓子コーナー自体は一応あるのだけれど、そこにもあのセロファン袋はない。
先ほどよりもやや積雪の増した道を少し歩いて、駄菓子も扱ってそうな雰囲気のある古い商店へと入った。
十円ガムや五円チョコ、よっちゃんイカ、くじ引き用の糸がついた砂糖をまぶした半透明の飴玉、パチパチキャンディといった、おなじみのお菓子がみっちりと並んでいる。小学校の頃、遠足の前の日はこんなラインナップの中から三百円を握り締めてできるだけ費用対効果が高くなるように必死になって選んだものだ。
けれど、そのコーナーの隅から隅までを見渡しても、あの根菜状の小さな袋は見当たらなかった。
「ポン菓子は扱ってないんですか?」
そう店員のおばちゃんを呼び止めて聞いてみる。おばちゃんはああ、と言って、無慈悲にもこう続けた。
「つい十分ぐらい前に売り切れたとこだよ、残念だったねえ」
つい十分。だとすれば、あの強盗騒ぎに巻き込まれていなければ、買えたのだ。あとちょっと、警察の取調べがさっさと終わっていてくれたなら。
後悔しても、新たにここにポン菓子が湧き出るわけではない。それでも、思わず私はがくりと膝をついた。なんのために、わざわざここまで来たのだろう。
生協での取り扱いはない。コンビニでも一般的ではないようだ。このあたりに駄菓子屋は少ない。折角取り扱いがある店に来てみれば、わずかの差で売り切れ。今日は、とことんポン菓子に縁が薄いのだろうか。
「……そんなに食べたかったのかい?」
頭上から聞こえるおばさんの声に顔を上げ、私は頷いた。すると、おばさんはレジに置いてあったチラシの裏を切ったらしきメモ用紙を取り上げ、何かを書きつけた。
「これ、ウチが仕入れてる駄菓子の卸売りのお店なんだけど、普通に行っても売ってくれるよ。箱買い限定だけどね」
途端、すっかり抜け切っていた力と気力が、みるみる漲ってくるのを感じた。現金なものだとは思う。
「どこですか!?」
立ち上がると、おばさんが一歩後ろに引き気味になった。そんなにがっついているように見えるだろうか。
おばさんは店名を書いてくれたメモに、さらさらと住所を書き足した。この住所なら、地下鉄で数駅行ったところから歩いて十分ぐらいだろう。私はおばさんに何回か深く深く頭を下げ、急いで地下鉄の駅へと向かった。ついさっきほんの十分の差で逃したのだ。のんびりはしたくない。
二区間分の券を買い、滑り込んできた地下鉄に飛び乗った。帰宅ラッシュよりは少し早いおかげで、車内は割りと空いていた。買い物風の人たちと、近隣の女子高の制服のスカートがコートの裾から覗く女の子たちの姿が見えるほかは、ほとんど人はいない。人がまばらの車内では声が妙に響くせいか、混んでいる地下鉄ではかしましくお喋りが止まらない彼女たちも、妙に静かだった。なんとも言えず、落ち着かない空気が車内を満たしている。
数駅は乗りっぱなしなので座席に腰を掛け、少しだけ休もうと目を閉じた。
が。
ほんの五分も立たないうちに、車両の中には、運行停止を告げるアナウンスが流れた。数駅先で、人身事故があったそうだ。要するに飛び込みだ。
安全柵の設置がまだ終わっていないこの路線では、結構な頻度で線路への飛び込みが発生する。一時期よりは減ったという話だけれど、それでも、数日に一回は起こる。ラッシュ時にそれをやると、遺族が数億円の賠償請求をされるという話は都市伝説らしいが、それでも、車内にはうんざりしたようなため息が充満していた。人がひとり大変なことになっている、という事実の重みはわかるのだが、「人身事故」という言葉の語感は、それを薄めさせる気がする。人が飛び込み自殺、或いは転落事故を起こした、という感じよりも、地下鉄が止まる厄介な事態、という感覚のほうが強くなるのだ。
ともかく、こうなってしまっては当分地下鉄は動かない。目的の駅よりもかなり早い駅で地下鉄を降りた。薄暗いホームから階段を駆け上る。ここの駅からなら教えてもらった駄菓子問屋へは、二キロぐらいだ。歩いて行けない距離ではない。
キオスクもバスセンターもない小さな駅だから、改札を抜けてもう一回階段を上るとすぐに外に出る。改札のある部屋から外までの階段は一直線で、扉も普段は開かれているから、外の冷気がそのまま吹き込んで来て、車内との温度差に少し身震いした。緩めていたマフラーを締めなおし、風が入り込まないようにして階段を昇った。
外は、見事な地吹雪だった。
良く利用する駅なのに、見慣れた景色がそこにはなかった。景色自体がない。視界は、ニメートルもなかった。一応街中に近く、街灯やコンビニなどはそれなりにあるはずなのに、それらの灯りは極めて薄ぼんやりとしか見えない。タクシーの姿もなかった。
同じ光景を見てしまった女子高生が「うわっ」と声を出し、階段を下りていった。野菜の詰まったエコバッグを提げたおじいさんも、困ったように真っ白く染まった外の世界を見ている。うちの大学の山スキー部のジャンバーを着た男子が、意を決したように唇を引き結ぶと、白の世界に一歩踏み出して、そしてその姿はあっという間に消えた。
びゅうびゅうという速い音が、風の強さを物語っていた。気温が低く雪の粒が細かいので、真っ白な粒子の波が流れているように見える。ビーズクッションを破って、粒の動きを観察したことがあるが、それに少し似ていた。
どうしよう。一応、今日の気温に対応できる程度に厳冬期の服装はしている。コートはうちにあるので一番温かいダウンだし、ユニクロのヒートテックの上にセーターを重ねている。ズボンの下にもタイツを履いた。冷たい風から耳を守るために帽子もちゃんと被っている。手袋とマフラーは、そもそも常にしている。
それでも、ただ寒いだけの晴天と、地吹雪とではわけが違う。冷たい風と雪が容赦なく顔面に吹き付けてくるのは、寒いや冷たいを通り越して最早痛いの領域だ。これがスキーに行く時だったりしたならば、滑降の際のスピードで風が顔に当たるのはわかっているから、顔を守るためにバンダナを巻いたり、顔用の防寒具をつけたり、それこそ目出し帽を被ったりする。むしろ目出し帽って本来そのためのものではなかったか。
ほとんど視界がないに等しい道を歩くのは、北国育ちの人間だって、怖い。普段行かない場所なら尚更だ。しかし、地下鉄の復旧を待っていたのでは閉店時刻になってしまう。今のところタクシーの姿もないし、そもそもタクシーに乗るだけの持ち合わせもなかった。道路状況が悪くて二キロ、しかも信号の多い街中となれば、千円以上は確実にかかる。
作品名:失われたポン菓子を求めて 作家名:なつきすい