閉じられた世界の片隅から(4・完結編)
少しだけだるさはあるけれど、歩けないほどじゃない。昨日のほうがずっと具合は悪かった。もうあの絶望的な味の薬も要らない。だけど、フィズの体調が心配だった。魔法さえ使わなければいいのかもしれないけれど、できれば休ませたい。両目が元に戻らないというのが、なんとなく、はっきりとした理由はないのだけれど、妙に心配だった。なにか、大変な異状が起きているのではないかと。そんなことを口にしたら、フィズは心配しすぎだよ、と笑うかもしれないけれど。
「そうだね。じゃ、お昼でも買いに行こうよ」
そう言って、フィズは大きく伸びをした。
「おなかすいた」
いつも通りのその言動が、何故か妙に可愛く見えて、つい、口元が緩んでしまった。
「じゃ、行こうか。先に顔洗ってきなよ」
「ん、わかった」
そう言って、改めて身体を起こしながら、フィズがじっと僕を見ていることに気付いた。
少し、目をそらしてみる。フィズの眼がそれを追う。僕の心の奥底まで見透かすような、その綺麗な瞳で。
「……何?」
「や、なんでもないんだけど」
なんでもないわけないと思うのだけれど。一体何を考えられているんだろう、心拍数が変な上がり方をする。昔からずっと、僕はフィズのこれに弱い。なにもかも見通されているようで。
「あんまり変わらないなーと思って」
「は?」
見慣れているけれど、その顔をされるたびにこちらは妙な緊張が走る、いつもの冗談とも本気ともつかない表情で、フィズは言った。
「お互い好きって言って、キスもしたのに。あんまり何も変わらないなぁ」
「……今更変えろって言われても、無理だろ」
がっくりと力が抜けた。なんだ、そんなこと。
「僕ら何年一緒にいると思ってんだよ……」
「えーと、十三年半?」
「うん」
十三年半。当時、フィズは六歳、僕は三歳前後。一応、出会ったその日を三歳の誕生日としているけれど、本当のところはわからない。僕の記憶は事実上その日から始まっているのだから、僕の人生はずっとフィズと一緒だった。その間に作り上げてきたやりとりだとか、関係性だとかは。
「そう簡単に変えられないよ。ずっと一緒だったんだからさ。それとも、やっぱり変えたい?」
「いや」
フィズは首を振った。
「もしかしたら変わるかなって思っただけ。変わらないならそれでいいのよ。ずっと一緒にいたんだもんね」
「うん」
勿論、初めからこんな感じだったわけじゃない。きっと出会ったときから少しずつ変わってきたんだろう。僕らも、気付かない間に。そしてきっとこれからも、少しずつ、変わっていくのかもしれない。
だけど、どんなに形が変わっても、交わされるやりとりが変わっても。ずっとフィズと一緒にいたい。
「ねー、サザ」
子供の頃とは表情の作り方が少し変わった気もするけれど、それでも、フィズはフィズで、僕は僕だ。
「これからも、ずっと一緒だよ。どんな危ない目からだって、私があんたを守ってあげる」
僕を抱きしめて、フィズがそう言う。思わず苦笑してしまった。情けないけれど、確かに物理的に危ない目から守られてきたのは、いつも僕。そして多分それを逆転することはできない。だからせめて。
「ああ。……だから僕が、一生フィズを支えるよ。ずっとそばにいる。絶対、離れないから」
フィズの背に腕を回して、ぎゅっと力を込めた。
「ん、ありがと」
そう言うフィズの声は、温かくて穏やかだった。
僕らのやりとりと関係は、少しだけ変わったと思う。前だったら僕によりかかることを、フィズは拒んだと思う。
だけど、それをしなくなったフィズは、なんとなく、前よりもフィズ自身のことを好きになってくれたんじゃないかと僕は思ったんだ。証拠はないけれど。そしてそれが、僕には無性に嬉しかった。
それから身支度を整えて、街に食べ物を買いに出かけた。天気も良くて気温も温かだったけれど、寒がりのフィズは厚着をしていた。
人間以外の血筋の証であるあの綺麗な瞳と尖った耳が目立たないように、いつものように大きな帽子を深く被って、此処暫く切っていなくて伸びた長い黒髪で耳を覆い隠した。それでも表情は明るくて、あれやこれやと好きなものをいろいろと買い込んでいた。買いすぎなんじゃないかと思うぐらい買いこんで、例によって持ちきれなくてそれを全部僕に持たせて、その上まだ屋台を覗き込んでいた。
本当に、心から楽しそうで、僕はそれがすごく嬉しかった。そして、その楽しそうなフィズの隣で笑っていられることが、この上なく幸せだった。
次の日、フィズは完全に体調を崩して寝込んでしまった。僕は延泊の手続きをして、フィズに付き添っていた。熱はない。むしろ、低すぎる。フィズは、「はしゃぎすぎちゃったかなぁ」と少し困ったように笑っていた。昨日買いすぎた食べ物の残りを、少しずつ食べた。
その次の日も、そのまた次の日も、フィズはほとんどベッドから動けなかった。ベッドから出るのはトイレと入浴のときぐらいで、あとは食事も上体を起こしてベッドで摂った。口にできる食べ物の量は、日に日に減っていった。
ベッドに入っているときも、眠っている時間が長くなっていった。起きているときは意識もはっきりして、会話もできるのだけれど、少し話すと疲れてしまうのか、また直ぐに眠り込んでしまう。
持ってきた検査器具をありったけ使って、できる限りの健康診断も行った。だけど、どこにも異状は見られなかった。ただ、全体的に衰弱が進んでいるようだった。
まるで、老衰の患者さんみたいだ。頭に浮かんだその思考を必死で振り払う。フィズはまだ十九歳だ。人間の寿命にしろ、魔族の寿命にしろ、大体八十年ぐらいはある。精霊や魔人の寿命に比べれば遥かに短いとはいえ、それでもフィズはまだ若い。それに老衰ならば、こんなに急激に弱っていくわけがない。つい何日か前まで、あんなに元気だったんだ。
フィズはまた眠っている。今はもう、日中でも起きている時間のほうが短いぐらいだ。その短い時間をひとりぼっちで過ごさせてしまうことがないように、ずっと、フィズのそばについていた。握ったフィズの手は、生きた人間とは思えないほどに冷たいけれど、その華奢な手首が確かに脈打っている。大丈夫、フィズは、生きている。
検査もした。重い疲労に効きそうな薬も飲ませた。体温を上げる作用のある薬もある。だけど、どれも効果は見られないし、フィズの身体に何が起きているのかすらわからない。あの時と同じ。どの口が自分を医者だと名乗れるんだ。医者として僕にできることは、なにもなかった。
日数が無為に過ぎていく。日ごとにフィズは衰弱していった。秋も深まっていって、冬の足音が聞こえてきている。窓の外では冬の訪れを知らせる白い羽虫が群れを成して舞っていた。
「ねー、サザ」
僕を呼ぶフィズの声は、弱ってはいたけれど、意識ははっきりしていた。
「もう、あの街は雪が降ったかなぁ」
「もうすぐじゃないかな。大体、毎年フィズの誕生日ぐらいだし」
「そだね」
フィズの手を握る。冷たいけれど、確かに、生きてる。
「なあ、フィズ」
「ん、何?」
「誕生日、何がほしい?」
初雪の降る頃。あと、十五日ほどで訪れるフィズの二十歳の誕生日。
作品名:閉じられた世界の片隅から(4・完結編) 作家名:なつきすい