閉じられた世界の片隅から(4・完結編)
数歩先に進んでは、僅かに立ち止まって、帽子から覗く尖った耳がぴくりと動く。僕の足音を確かめているのかもしれない。壁面の側に寄りながら、左右のバランスを崩さないように注意して歩く。少しずつ、川の音が大きくなってくる。もしかしたら、そろそろ川の中に倒れている人たちが、はっきりとそれとわかるかもしれない。フィズの目で見てもわかるほどに。だけれど、それを確認する余裕はない。多分、フィズにも。
どれぐらい降りてきたのか、わからないまま下へ下へと。少しずつ入ってくる光の量が減ってきているから、それなりに下がってはきているんだろう。同じく谷底にあって、あまり日当たりの良くなかった僕らの街を思い出すような、直接差し込むようなのではなく、柔らかくベールのように包み込むような陽の光。物心ついてからずっと、それが当たり前なんだと思ってた。街を出てからそんなに時間が経っているわけでもないのにもうそれが懐かしく感じられるなんて。
フィズが立ち止まって、振り返った。階段はそこで終わりのようだ。
「大丈夫?」
「うん、全然平気」
今のところ、頭や足元がふらついたり、景色がぐらつくようなことはない。たいした風邪じゃないのか、それとも朝飲んだ薬が効いているのかはわからないけれども。
最後の一段まで決して一段飛ばしをすることもなく、一歩ずつ確かめながら石段を降りきった瞬間、意図せずして長い息を吐いた。僕が思っている以上に、神経が張り詰めていたんだろう。まだ本当の目的が済んでもいないのに、一気に疲れがきたような気がした。だけど、目指す目標はすぐそこだ。川ですべてを見届けたら、少し休息を取りたい。
石段を降りきって浅い川の淵を進む。ここも足元は岩盤で、かなり滑りやすい。転んでも頭さえ打たなければもう命に関わることはないだろうけれど、川以外の部分にも薄く水が流れているので、服が濡れたら間違いなく風邪は悪化する。なるべく集中を途切れさせないように、先ほどまでいた橋があった場所の真下まで一歩ずつ進んだ。
思ったほど、凄惨な光景ではなかった。勿論それは見た目上の意味であって、その場に息のある人はもういなかった。あれだけの高さから落ちた割には遺体の損傷は少なくて、ちゃんと人間の姿を保っている。それでも、即死には間違いなかっただろう。出血も少なくはなかっただろうけれど、すっかり川の流れに洗われてしまっている。もう気温自体低く、水温も冷たいため、腐敗もまったく進行していなかった。うちに運び込まれてきて助からなかった大怪我の患者さんの遺体を、家族に面会させる前に清めたときのことを、ふと思い出した。そのときのそれに、今目の前にある数名の亡骸はよく似ていた。白くて、綺麗で、死臭もないけれど、同時に生きている匂いもしないそれ。
川の流れる音しか聞こえない。それから、フィズと僕が歩く音や呼吸音と。
「七人、か」
フィズが、小さく呟いた。
「あのとき居た人、全員だね」
昨日、最後まで残ったのは七人だった。あとは、最初のフィズの起こした爆発の時点で恐れをなしたのか、シフト氏を殺害して、戻ったときにはもういなくなっていた。残っていたのは怪我人ばかりで、雇い主を心配してその場で待っていたと思われる人はごく僅かだった。逃げた人たちがどこへ行ったのかはわからないけれど、彼らは私兵であるのだからこの件を以て軍に僕らの追討を要請することなどできはしないのだし、もし街道を先に進んでじーちゃんたちと出くわしてしまったとしても、一人二人相手ならば間違いなくじーちゃんとレミゥちゃんのほうが強いだろう。心配はいらないはずだ。
「あいつも入れたら八人。あの時と、おんなじか」
あの時、というのがいつのことかわからなくて、僕はフィズの方を向いた。何処か、感情の薄れたような、猫目石と柘榴石の瞳。
「フィズ」
思わず、名前を呼んだ。はっとしたように顔を上げる。その表情は、もう、いつものフィズのもの。昨日とは違う。大丈夫だ。
「あんたが殺されかかったときのことよ」
声は沈んで、淡々と。それでも、大丈夫だと確信を持てたのは、ちゃんとその目が、僕のほうを見ていたから。
殺されかかったとき。先日シフト氏に銃撃されたときのことではない。もっと、ずっと昔のことだ。そうか、そのときも、八人だったのだっけ。
「合計十六人か。ねえ、サザ」
フィズは、じっと僕を見た。まっすぐに、目から心の中を覗き込まれるように。
「それでも、私たちは生きていていいんだと思う?」
その双眸に、不安の色はなかった。僕の答えを予想していたからなのか、どんな答えでも受け入れる覚悟があったからなのか、僕には、わからなかった。僕にわかっていたのは、それに答えを出すことは、僕だけじゃ無理だということだけ。
「フィズが、自分で生きていたいと思うなら、生きていていいんだと思う。僕は、生きていたいよ。だから僕は生きていていいんだと思ってる」
多分きっと、生きていていいのかどうかなんて、その本人にしか決めることはできないのだ。本人がどう願おうと、死は万人にいつかは必ず訪れる。それが早いか遅いか、不本意なものかそうでないか、誰かによって押しつけられるものかそうでないものかの違いはあっても。だから少しの、自分が選べる範囲だけは、自分の意志でだけしか決められないのだ。それには他人の許しだとか世間がどうだとかは、関係がないのだし、それを押しつけることはきっとできない。勿論、フィズに生きていてほしいと望んでいるし、もしフィズがいないなら、この世界に生きていたいとも思わない。
だけど、誰かの許しがないと生きていられないなんて、どう考えてもおかしい。僕の命は僕のものだし、フィズの命はフィズのものだ。本当は、誰もがそのはずなのに。以前の僕だったら、なにも考えることなく「生きていていいんだよ」と安易に答えていただろう。だけど、他人の命を判断する権利なんて、きっと誰も持っていないのだ。誰かの人生はそんなに、軽いものじゃない。
誰かにとって、生きていることが許しがたい人はいるだろう。ある人から見れば、死んだほうが良いと思われている人なんてこの世にいくらでもいるに違いない。或いは、自分以外の人間すべてを敵に回している人だって存在したっておかしくはない。その人は、社会に受け入れられてその中で生きていくことは非常に困難なことだろう。だけれど、たとえそうであったとしても、その人が生きてていい人かどうかを決めるのは、多分、その人自身でしかない。本人以外ができることは、その人に生きていてほしいと望むことや、或いはその逆か、その人に働きかけてその人の決断に関わっていくか、そのぐらいだ。
僕は、生きていたいと願う。フィズにも生きててほしい。だけど、それを決めるのはフィズでしかない。
だけど、そう思えるようになったのは、きっと本当につい最近のことだ。そんなこと、考えることすらなかったのだから。
「……そっか、ありがと」
フィズはそう言って、川に一歩近づいた。その声に、僕は心の底からほっとした。
暫くフィズは横たわる遺体を眺めていたが、ふと、気になることを呟いた。
「やっぱり、無理なのかな。まだ生命力は身体に残ってるのに」
「え?」
作品名:閉じられた世界の片隅から(4・完結編) 作家名:なつきすい