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なつきすい
なつきすい
novelistID. 23066
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閉じられた世界の片隅から(4・完結編)

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4. その灯をつかみとるように


 疲れきっていつの間にか眠り込んでしまったフィズが目を覚ましたのは、翌朝の、まだ陽が昇るか昇らないかぐらいの時刻だった。
「サザ、起きてる?」
「うん」
 昨夜泣き叫んだためか少し掠れてしまった声で、僕を呼ぶ。その声の調子は、少し弱かったけれどもいつものフィズで、少しほっとした。触れた手は、昨日よりずっと温かだった。良かった。思わず、深く息を吐こうとして、気が抜けたからか、ふくしゅっ、と、くしゃみが出た。
「風邪っぽい?」
「あー、身体冷えたからかな……」
 応えて、僕は片手で布団を引っ張った。昨日フィズが眠り込んでしまったあと、なんとか濡れたマントだけは脱がせて布団を掛けたのだけれど、相当体温が奪われてしまったようだった。
「……私のせいだよね、それ」
「いや、まあ」
 申し訳なさそうなフィズの顔に、妙な話だけれど、少しだけ安心した。ああ、いつものフィズだ。僕になんらかの被害を出してしまったあとは、いつだってこんな風に申し訳なさそうな、困ったような、心配そうな顔をして。
 フィズは手を伸ばして僕の額と自分の額に交互に触れた。表情がみるみる曇っていく。
「あー、熱あるわ……」
「え、ほんとに」
 僕も自分で額に触れてみるけれど、よくわからなかった。多分手も熱くなっているからだろう。でも言われてみると、なんだか全身がだるいような気がしてこなくもない。病は気から、というやつのような気もするけれども。熱を出すのは何年振りか。一番最後にフィズの前で泣いたときよりは、最近だと思う。
「本当にごめんね。今薬用意してくるから」
 そう言って、両腕を立てて、僕の身体からすっと離れた。フィズの体温が腕の中から消える。それが、なぜだか無性に心細くて、僕はフィズの服の裾を咄嗟に掴んでいた。
「え?」
 フィズがきょとんとした表情で、僕を見た。ああ、情けないな。まるで小さな子供の頃みたいだけど。
「もう少し、此処に居て」
 途端、フィズの顔が赤く染まった。そんなたいしたことは言っていない、と思うのに。昨日のフィズの言動を冷静に思い出したら、そっちのほうがよほど、などと思っていると。
「……かわいいな、サザは」
 そう言った瞬間のフィズの、照れくさそうな、少しはにかむような笑顔に、心臓が早鐘を打つようだった。小さな可憐な花が開くような、蕩けるような甘い笑み。言葉が出てこないぐらい、綺麗で、可憐で。
 両腕の力を抜いて、僕に体重を預けてくれたフィズの体温に、心細さが消えていくけれど。
「熱があるからかな。心音、早いよ」
 誰のせいだよ。そう言う代わりに、僕はもう一度、フィズの背に手を回した。
 良かった。フィズは、確かに此処に居る。その事実が、手の触れるところにある。昨日から張り詰めていた神経が、ひとつひとつほどけていった。
「昨日は、本当にごめん」
 フィズの表情は見えないけれど、少しだけ、声が震えていた。
「昨日は本当に、どうかしてたよ。わけわからなくて、私なんかいないほうがいいんだって思って……でも、自分で死ぬのは、怖くてできなかった。だから」
「そんな悲しいこと、もう言わないで」
 また、フィズの声が涙混じりになりかけてきて、僕は言葉を遮った。
「少なくとも僕は、フィズがいてくれないと、困る」
 正気でいられる自信すらない。僕が僕であるためには、フィズが必要なんだ。
 もしかしたらとっくに、僕は気がふれているのかもしれない。こんなにもたったひとりを求めてやまなくて、こんな感情が、衝動がまともなわけがない。いつからかもわからないほど、多分これが僕の本質なんだ。はっきり自覚したのがいつだったのかは覚えている。だけどそれよりもずっと前から、僕はフィズに惹かれていたんだ。必死で気付かないようにしていただけで。
 なんでもできて、強くて、美人で、僕に対しては少し過保護で、だけど大雑把で無茶苦茶な、僕の自慢の姉。塵に埋もれて死ぬはずだった僕を救ってくれた、恩人。大切な家族に対する愛情だと思っていた。勿論、今でも姉として敬愛しているし、助けてもらったことはどれだけ感謝してもし足りない。だけど、それだけじゃない。
 フィズを愛してる。姉として、恩人として、人間として、ひとりの女性として。それでも足りない。ふさわしい言葉が見つからない。優しくて、強気で怖がりなその心も、くるくると変わる豊かな表情も、涼やかで透明な声も、その声で紡ぎだされる言葉ひとつひとつ、宝石のような柘榴石と猫目石の双眸、艶やかな、ランプのない夜の闇のような黒い髪、割と背が高いのに骨が細くて華奢なその身体、フィズの存在全てが愛しい。
「ん、ありがと」
 小さく呟いて、フィズは顔を上げた。
「あのさあ、……ちょっと、例のボロいほうの橋、見てきたい」
「え?」
 見上げた、フィズの瞳は真剣だった。
「ちゃんと見届けないといけない気がするんだよ。私が、したことの結果を。本当は、話聞いてすぐ行こうと思ったんだけど、怖くて、わけわからなくなっちゃって。……もう逃げたくない。逃げたら迷惑がかかるからじゃないよ。私が、もう逃げたくないの。でないと、ここまでしてくれたあんたに、自分が恥ずかしい」
 目をそらすことは、なかった。僕の心の中まで覗き込むような、深い赤と金色。
「絶対にサザのところに帰ってくるよ。勝手にいなくなったりなんかしない」
 その瞳は、もう揺らいではいなかった。ひとつの確実な感情だけを映して、僕をじっと、見つめていた。
 見届けなきゃいけない。それは、僕も同じだ。フィズと一緒に生きたいと願ったんだ。フィズの決断とその結果を、僕も一緒に背負って生きたい。
「僕も行くよ」
 言うと、フィズは小さく笑った。
「結構遠いよ。熱あるんだから、此処で待っていて」
「平気だって」
 寒気はする。身体もだるい。だけど、ついていきたかった。
「私は大丈夫だよ。あんたを置いていなくなったりしないって。……信用、できない?」
 僕は首を振った。大丈夫。今のフィズはもう逃げたりしない。そう思う。
「信じてるよ。別に心配だからついてくって言ってるんじゃない。僕も、自分の目で見たいんだ」
 僕らのしたことの結果を。僕が、僕の覚悟から目をそらさない為に。
 僕らだけじゃない。誰だってきっと、生きたり、願いを叶えるためには何らかの代償がいる。そもそも、ただ食べて生き続けるだけだって、他の命を犠牲にしているんだ。フィズが普通に生き続ける為に、そして僕を守るために払ってくれた代償は、その願いのささやかさに対して、ひとりで背負うには理不尽に重いものだったというだけ。
 その事実から逃げることはできない。それならせめて、この目で見たいんだ。そうすることで、僕は多分、前だけを見て歩いていくことができる。受け入れられずにそのままにして置いてきたものがあれば、それはいつか後悔に姿を変えて僕にのしかかってきてしまうかもしれないから。
「そんなに無理はしないよ。ちゃんと薬も飲んでいくし。宿も結構部屋空いてるっぽいから十日くらいなら延泊しても大丈夫だと思うし薬のストックもまだあるし」
「あー、もう悪化する前提なんだ……」
「うん」