閉じられた世界の片隅から(4・完結編)
フィズが、変だ。壊れたとは言いたくなかった。だけど、次に出てきた言葉は、普段のフィズだったら絶対に言うはずのないこと。
「よくドラマとか本であるでしょ。傷心の女の子がすべてを忘れるために主人公と激し目にやっちゃうような話」
よくないから。いつもどんなの読んだり聴いたりしてるんだよ。そんな言葉も出てこない。フィズの瞳が、昏い光を帯びていて、冗談ではないことがわかったから。
「私のこと、好きなんでしょ? だったら、いいじゃない」
「よく、ないだろ」
かろうじて声が出た。がたがたと不自然に単調で。
フィズの手が、僕の服の裾に伸びてくる。するりと滑り込んできて、腹の辺りに触れた手は秋の雨で冷えたのか凍ったように冷たくて、思わずびくりと体が跳ねた。
「ちょっと、落ち着いて、フィズ」
声が上擦ってしまって、動揺しているのは明白だ。だけどきっと、僕が今どんな精神状態であろうとなんだろうと、今のフィズには関係のないことなのだろう。
精神的に追い込まれると暴走して突拍子もない行動を取るのは、何も今に始まったことじゃない。この前の失踪騒ぎのときもそうだし、僕らを悲しませないために記憶を消すのだってそう。僕は小さかったので覚えていないのだけど、子供の頃にも何度か家出騒ぎを起こしていたらしい。
だけど、いつものそれとは明らかに違うことがひとつあった。どう考えても巻き込まれた全員を傷つける結果に終わるその暴走に、僕を生贄にする方向で巻き込んだことは、未だかつてなかった。自分はどれだけでも平気で傷つけるくせに、僕がなんらかの形で犠牲を払うことを予測に入れて行動したことはなかった。僕に手を汚させようとすることも、決してなかった。なのに。
「いいじゃない。どうせ血も繋がってないんだし。優しくなんてしなくていいから、何も考えられないようにしてよ、ねえ、サザ」
華奢な右の指先で、腹筋をつつ、と撫でた。くすぐったさに体が逃げようとするけれど、幸い、フィズが望むような精神状態にはなりそうもない。興奮とか欲情とか、そんなことよりも他の種類の感情が次々と沸いてくるから。
フィズを壊すなんて、そんな一番気の進まない役割を、僕に押し付けた。明らかに、正気じゃない。
そんなことできない。それに、そんなことを言い出すフィズに正直腹も立っている。壊せるわけないだろ。僕にとって一番大切なひとを。血が繋がってないことをこんなときに言い出すのも、あまりにもいつものフィズらしくなくて、もしフィズが正気でこんなことを言っていたとしたら、間違いなく史上最大規模の姉弟喧嘩に発展していただろう。
怒りもあるし、そんなになるまで壊れてしまったことが悲しくもあったし、こんな状態になるまで支えになれなかった自分があまりにも情けない。だけど、せめてひとりで逃げ出してしまうんじゃなくて、僕を巻き込んでくれたことが、少しだけ、嬉しかった。こんな状況なのに。
ひとりでいなくなってしまったら、探し出さなければいけない。僕を巻き添えにしてくれているなら、その手を離さないことだけはできる。
落ち着け、僕。まだ、なんとかできる。まだフィズは此処にいるから。この手の届くところに、姿が見える場所に。
しばらく腹や胸のあたりを這い回っていた華奢で冷たい手を捕らえた。こちらを見下ろすフィズは、口元だけ笑っていて、目は何処も見ていないように見えた。
「どうして?」
フィズの声は、フィズの双眸と同じだった。様々な感情や思考や衝動が混ざり合って、どこか、調子の狂った声音。
「いいじゃない。したいでしょ?」
もう一本の腕を寝巻き用の緩いズボンに伸ばしてきたので、それも捕まえた。ぐっとつかんだその手は、少し力を加えれば折れてしまいそうに細い。
「物には文脈とかシチュエーションってものがあるだろ、フィズ」
「萌えない、ってこと?」
「端的に言えば」
本気でふざけた物言いが返ってくるので、こちらも本気で冗談のようなことを口にした。いつもの、しょうもない会話の応酬のように。今フィズがこんな表情をしていなかったら、僕の声がこれだけ固くなかったら、いつもの身も蓋もない発言と、大して違うことは言っていないのかもしれない。
「僕は、フィズが好きだよ」
「なら」
「だから、フィズを幸せにしたい。笑っててほしい。泣かせたり壊したりするなんてできない。僕のこと好きでもないのに、わけがわからなくなるためにしたいって言われても、じゃあしようかなんて言えないし」
「……だって」
もう、限界なんだよ。そう呟く声は、震えていた。
感情が混沌として、表情が一瞬ごとに変化する。多分、今の状態を一番把握できていないのはフィズ自身だ。いっそ泣き叫ぶことができれば少しは気持ちの整理がつくのかもしれないけれど、それすらできないほどに、心が崩れ落ちているんだろう。
「ごめん」
掴んだ腕をぐっと引いた。咄嗟にバランスを保てずに、フィズの体が僕の上に落ちてくる。軽い。雨で濡れたフィズの服が、風呂で温まっていた僕の体温を奪っていく。こんなものをずっと着たままのフィズの身体は、どれだけ冷え切っていることだろう。
「フィズが好き。大好きだよ。本当は、フィズのしてほしいことなら、なんでもしてあげたい。でも、僕はフィズと一緒に生きていきたいから、壊したり傷つけたりなんか、できない」
「………………」
「フィズのためじゃない。僕の、わがままだよ。どうしてもっていうなら、僕も道連れにして。多分僕は、僕がフィズを傷つけたら、僕のことを許せないと思うから」
途端、僕の拘束を振りほどこうとしていたフィズの両腕から、力が抜けた。目の前にあるフィズの双眸が大きくひとつ揺らいで、それから。
「……ずるいよ」
そう言って、ひとつ、大粒の涙が零れ落ちた。
一度溢れたら、もう止まらなかった。僕の首に顔を押し付けて、フィズは泣き出した。言葉は泣き声に溶けて、もうわからない。
僕に体重を預けて、声をあげて泣くフィズの華奢な背を、強く抱いた。
僕はずるいよ。それぐらい、わかってる。でも少しだけ、賭けだった。初めて意図的に僕を暴走の巻き添えにしようとしたフィズなら、僕を道連れにしてでも、狂っていくことを選んでもおかしくないと正直少しだけ思っていたから。でも、そうなるなら、それはそれで仕方がないとも思っていた。僕一人正気で、壊れたフィズと生きていく選択肢や、フィズがいなくなった世界で生きていくことは、ありえないから。
だから少しだけ、嬉しかったんだ。たとえずるいって言われても、僕を巻き添えにしてふたりで壊れることよりも、そうじゃない道を選んでくれたことが。
フィズが泣き止むまで僕はずっとその背中を抱いていた。こらえていた涙が少しだけ落ちたけれど、多分、フィズには見られていないはずだった。
作品名:閉じられた世界の片隅から(4・完結編) 作家名:なつきすい