閉じられた世界の片隅から(3)
だけど、そんな目に遭った挙句、フィズが死んでしまったら。そんなことをした相手を、僕は絶対に許せない。それだけじゃない。
僕は生きていないと思う。間違いなく。そもそもそんな目に遭わなくて、普通に病気や事故だとしても、フィズがいないなら、僕は生きて居たくない。考えたくもない、そんなこと。
そんな想像することすら耐えられないほどの苦しみを、現実に突きつけられたシフト少将はどう受け止めたのだろう。
彼は、自分の認識の中の現実を捻じ曲げることによってしか、自分を保つことができなかったんじゃないだろうか。できたのは、インフェさんを憎むこと。インフェさんと、ヴァルナムの盟主の間に生まれた、フィズを傷つけ苦しめること。
インフェさんを好きでい続ける限り、苦しみから逃れられないから。だから、インフェさんを好きでいることを、彼は捨てた。
「あんまりだ……」
僕は思わず、そう口に出していた。
あんまりだ、こんなの。
どんな理由があろうと、シフト少将がフィズを傷つけたことを僕は許さないし、七年前の事件のことも、正直言ってあの男が糸を引いていたのではないかと考えている。
だけど、それでも。
この人の辿った運命を知ったら、その言葉しか、出てこなかった。
どうして。
魔族も人間も関係ない。どうして、国のため、種族のためだなんて大義名分を以って、誰かの尊厳を、誰かの幸せを、誰かの運命を、こんなにも簡単に踏みにじってしまえるのだろう。
ふと思った。誰が、この戦争を本当に望んでいるのだろう。それによって傷つくのは、国以上に、誰か、名もない誰か。だけど、誰かにとってはかけがえのない誰かなのに。
二十年前の戦争によって大切なものを喪って、その思い出を捨てたシフト少将は、今度はこの街の人々の穏やかな生活を奪い、フィズの人生を壊そうとしている。そうすることで、自分の傷を誤魔化そうとするかのように。
そうして、連なっていく連鎖。傷つけられた人が、また別の誰かを傷つけていく。
誰も、そんなこと望んでなんかいないはずなのに。
「うん、あんまりだよ」
じーちゃんも、そう呟いた。
「だから、サザ。お前が止めるんだ」
「止める?」
「この馬鹿げた連鎖を。あの馬鹿が何をしようと、お前たちが幸せになれれば、それは断ち切られるんだよ」
じーちゃんは、僕の肩を掴んで、そう言った。
目を逸らせない。誰かに似てると思ったけれど、違う。フィズが、じーちゃんに似てるんだ。
「それはどんな形でも構わない。仲の良い姉弟として暮らすんでも、友達としてでも、恋人、夫婦としてでも、どれだっていい。なんでもいい、頼むから、幸せに生きて欲しいんだよ」
「それは、わかった。……けど」
だけど。
「……フィズに、このことは言わないの?」
フィズは多分、シフト少将の中で歪められてしまった話でしか、自分の出生を知らない。
シフト少将の言っていたような母親像と、母親がそんな人ではなかったけれど、フィズを救うために死んだのだという現実。どちらが、フィズにとっては辛い真実なのだろうか。それはわからない。だから、それを伏せておくかどうかは、じーちゃんに決めてもらっていいと思う。
それでも、じーちゃんが血の繋がった実の祖父なのだと知ったら、フィズは喜ぶはずだ。
だけど、じーちゃんは首を横に振った。どうして。
「今更、だよ」
小さく息を吐く。もう僕の目を見てはいない。
「インフェが死んで、リーフェがもういないって確信しても、俺が旅を続けたのはどうしてだと思う?」
わからない。僕がそう言うと、そうだよねえ、と言って、続けた。
「リーフェを幸せにしてやることもできず、インフェも父親らしいこともしてあげられないまま死なせて。本当は、インフェに与えてあげられなかったものを、フィズラクにしてあげればよかったんだって、今となっては思うよ。でも、遅すぎるよ。それに気付いたのは、ここ、数年で。……今更どの面下げて、実のじいちゃんだったんだなんて言えるんだよ」
「でも」
それでも、まだ間に合うと思うのに。
生きてさえいれば、取り返しのつかないことなんてないのに。
「フィズラクのためじゃない。俺のわがままだよ。なぁ、サザ」
じーちゃんが、笑った、寂しそうに、悲しそうに。
「俺は、最期まで、フィズラクの中で今まで通りの『じーちゃん』でいたいんだよ」
「……」
「わかってくれなくてもいいよ。ただ、『今まで通り』を変えるのには、何についても、大きなリスクと期待が隣り合わせだ。俺は今のままでも居心地が良い。老い先短い人生、あと数年のために、賭けをするのはもう怖いんだよ。……お前たちが、俺なんかには勿体無いぐらい、可愛い孫たちだから」
「……わかるけどさ」
今まで通りを変えることの不安と期待と、それでも変えたいと望む心と。
わかるよ。だけど。
「わかるけどっ………僕はじーちゃんの我儘よりフィズのほうが大事だから、わからない!」
正直に、そう僕は言った。
じーちゃんが苦笑いを浮かべていた。何を笑っているんだろうか。こんなにもあっさりとフィズのほうが大事だと言い切ってしまう僕を笑っているのか。それとも、別の何かなのか。
「よかった」
じーちゃんはそう言った。寂しげな笑顔で。だけど、少しだけ喜びの色を混ぜた表情で、じーちゃんは笑った。
「なにが」
「全部。サザが、なんだか立派な男に育ってくれたことも、フィズラクを、あの性格も出生も全部知った上でこんなに大事にしてくれる奴がいることもだよ」
「………」
「ひとつ、聞いてもいいか? 嫌だったら、答えなくてもいいから」
返事を、僕はしなかった。どうせしなくても、聞いてくるのだろうと思ったから。
「お前は、フィズラクのことを、どう思っているんだ?」
僕は思わずじーちゃんの顔を見た。じーちゃんの表情は真剣で、だけど、何処か僕をからかっているかのような楽しげな様子もあって。
僕はどうしていいかわからなくなる。
どう答えればいいんだろう。
答えるべきなんだろうか。
ぐるぐると思考が回転する。嘘をつきたくはない。だけど、はっきり答えるのも、正直、躊躇ってしまう。ああ、そうか。照れくさいのか。
だけど、本人にすら伝え切れてないのに、どう答えたものか。フィズを引き止めたくて、抑え切れなくて「好きだよ」と言ってしまったあの旅の夜。
あんな言葉じゃ足りない。ただの恋愛感情じゃない。それは、わかっている。
だけど異性としてフィズを好きな気持ちがないなんて言えない。この気持ちを否定することはできないし、多分年相応よりは薄い気もするけれども、フィズのあの華奢な身体に触れたいという欲望も、僕の中に確かにある。
弟として、家族としてフィズを大切に想う気持ちも、消えはしないだろう。
時には普通の友達のように遊んだり、何気ない会話を重ねることもある。
ひとつになんてくくれない。だけど、それらのすべての関係で、僕はフィズを何よりも大切に想う。
そして、フィズとの思い出や関係性は勿論、僕にとってかけがえのないものだけれど、それらの関係性がすべて喪われた時ですら、フィズのすべてが、僕を惹き付けてやまなかった。
作品名:閉じられた世界の片隅から(3) 作家名:なつきすい