閉じられた世界の片隅から(3)
ばーちゃんはイスクさんのために、うちにある一番良いお茶をお祝いだといって淹れた。じーちゃんも最初は身体は大丈夫なのか、ちゃんと相手は結婚してくれるのかなどいくつか心配をしていたようだったけれど、途中でお酒を出してきて、ひとりで嬉しそうに飲んでいた。僕も勧められたけれど、先日のフィズの様子を思い出すと、恐ろしくて口をつける気にはなれなかった。しかし「遅くなったけど俺からの成人祝いだよ!」の一言と共に、強引に一口飲まされた。甘さと苦さと辛さが同時に口の中に溢れかえって、正直味はよくわからなかったけれど、少々身体が熱くてふわふわするような感覚があった。幸い量の問題か体質の問題か、あそこまでぐだぐだになることはなさそうだった。
「ちょっと早いけど、イスクに何か出世祝いと引っ越し祝いと結婚祝いと出産祝いをあげようよ」
そう言い出したのはフィズだった。全員が頷いた。
イスクさんは、大変なときだし、と断った。これがフィズと僕だけだったなら「わたしはこれから少なくともお金と衣食住には困らない生活が待ってるんだから、気を遣わなくていいのよ?」とか、そういう冗談とも本気ともつかない断り方をしそうなのだけれど、さすがにばーちゃんたちの前では、そんなことは言わなかった。
とはいえ。赤ちゃんが生まれたら必要になるようなものは、今から持っていても仕方がないし、多分城下町にはもっと高品質なものが売っているだろう。ああでもないこうでもないといろいろ考えていたときにいいアイディアを出してくれたのは、イスクさんとは初対面のレミゥちゃんだった。最初はイスクさんとどう接して良いのかわからない様子だったレミゥちゃんも、元々順応性が高い子だからなのか、直ぐに仲良くなっていた。
「みんなでお皿にお手紙を書こうよ」
レミゥちゃんたち旅芸人のように移動を繰り返す生活では、手紙のようなものは紛失してしまいやすいらしい。なくしたくない大切な手紙は日常に使う品物に消え難いインクで書いて渡しているのを見たことがあるのだと言った。
もう使うことはないはずだった、七枚目のスープ皿。洗い終わったその皿を拭いて、テーブルに置く。
みんなで一言ずつ、イスクさんにメッセージを寄せた。イスクさんと初対面のレミゥちゃんは、何処かの地方で聞いた、安産のおまじないの文言を書いたらしい。
みんなで皿を取り囲んで、わいわいとメッセージを記入していく。
「幸せになるんだよ」「結婚おめでとう」など、皿の裏側一杯に溢れる言葉たち。誰が書いたものか、文字を見ればすぐにわかった。
「じゃあ、わたしからも、みんなに」
しばらくイスクさんは照れくさそうにその様子を見ていたけれど、そう言うと、自分もペンを持って他の皿に何かを書き始めた。
「あー、いいなぁイスクちゃん、私もフィズラクにお手紙書きたい!」
スーのその言葉をきっかけに、結局僕らは全員に宛ててメッセージを書くことになった。目の前にその相手がいるのに手紙を書くというのは、なんとなく気恥ずかしかったけれど、たまにはこういうのも良いかもしれないと思った。
フィズは、「これじゃあイスクへのお祝いにならないじゃない」と言いつつも、楽しそうに笑っていた。
まずは、ばーちゃんへ。次に、じーちゃん。スー、レミゥちゃんと続いて、一番最後に残したのは、フィズの分。
書きたいことはあった。だけど、最後に書きたかった。スーより前に書いて内容を見られて冷やかされたら嫌だな、という思いがあった。冷やかされるような内容でもないけれど、常にスーは僕をからかったり、いじったりするためのネタを探している。けれど、ここ数日はそういう傾向もあまり見られなくて、何故かそれが少しだけ寂しかった。
普段言葉にしないような思いを、文字に乗せるというのはかなり照れくさい作業だった。先日、行方不明になる直前、フィズはどんな思いで、全員に宛てて手紙を書いていたのだろう。こんな限られたスペースに書く短いメッセージですら、こんなに難しいのに。
みんなでわいわいとメッセージを書き付けていく作業は、それぞれの普段見せない部分を出し合うことのようで、とても楽しかった。
だけど、どこか切なかった。
みんなわかっているから。もうこの家には長くはいられないのだと。
この場所で、こんな風にみんなで楽しく過ごせる時間は残り僅か。
戦争が終わってこの場所に戻ってこれたとしても、もうこの家はないかもしれない。
ばーちゃんと、フィズと僕とスーにとっては、これまでの人生のほとんどを過ごしたこの家。
思い出の舞台は、いつだってこの場所。
だけど多分もう、戻れない。
誰も口には出さない。だけど、僕たちは多分はっきりと、スーも薄々わかっているのだろう。スーが一生懸命レミゥちゃんの世話を焼いているのは、妹が出来て張り切っているからばかりではないはずだ。
だからか。僕はいつもよりも笑っている自分にやっと気付いた。意図的に笑おうとしたわけでもないのに、無理に笑っているわけでもないのに。
ただ、今のかけがえのない時間を、少しでも多く楽しみたかった。
だから、笑っているんだと思った。
心から、笑えているんだとわかった。
住み慣れたこの場所で、ずっと共に過ごした大切な人たちとの思い出が、少しでも笑顔でいっぱいになるように。
七枚の何の変哲もないスープ皿が書き付けられたメッセージで一杯になる頃、興奮したせいかスーとレミゥちゃんは眠そうにあくびをしながらも、それでも一生懸命起きていようとしていた。
僕もまだ疲れが残っていて、体は眠気を訴えてくるのだけれど、この時間が終わることが惜しくて、眠気覚ましにお茶を淹れた。
ばーちゃんも今日は、スーたちに早く寝なとは言わなかった。じーちゃんも優しく笑って僕らを眺めていた。
この時間がずっと続けば良いのに。
きっと誰もがそう思っている。
だけど、止まっている時間は、存在しない。
こうしている間にも時計の針は確実に進み、交渉の期限は迫り、イスクさんのお腹の中では新しい命が育ち、僕らの別れの時は近づいている。その先に何が待っているのかを知る術は、僕らにはない。
だから、この今を精一杯に感じ尽くしたいと、僕はそう思った。
その夜、イスクさんはフィズの部屋に泊まった。明日の早朝、軍関係者が引越しの手伝いに来る前に家に戻れば大丈夫だという。
僕の部屋には、じーちゃんが来ていた。以前僕の部屋にじーちゃんが泊まったときと同じように、ベッドを譲って僕は床に布団を敷いた。ここのところ、少しずつ背が伸びているような気はするけれども、それでもまだじーちゃんよりは小さい。
しかし、なんでまたじーちゃんが僕の部屋に泊まると言い出したのか。この間のこともあり、僕は少々緊張というか、警戒していた。どうもじーちゃんには勝てる気がしない。小さい頃は別にそんなことは気になりもしなかったのだけれど、やはり追及されたくないことがあるからなのだろうか。
「まぁまぁ、そんな固くならずに」
「毎度のことだけどさ、本当にじーちゃんって心を読む魔法使えたりしないよな?」
作品名:閉じられた世界の片隅から(3) 作家名:なつきすい