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なつきすい
なつきすい
novelistID. 23066
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閉じられた世界の片隅から(3)

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 僕は多分望まれない命としてこの世に生まれてきた。けれども、生まれてきて良かったとはっきり言える。親らしいことは多分してもらってないのだろうし、どんな親からどういう事情があって僕が生まれたのかも知る必要はない。だけど、生まれることができたことだけは、幸運だと思っている。
 新しい命を、この世界に生み出す。そんな凄いことが、今目の前で起きている。それは凄いことだと思う。
 診療所で何度かお産に立ち会ったことがあるけれど、そのときはまだ、そんな風に思えてはいなかった。子どもが生まれる。それが凄いことだとは思っていたけれど、命が生まれるということの意味を考えたことはなかった。
 生まれては消えていく。百年にも満たないサイクル。僕らだって、いつかはこの世界からいなくなる。長い歴史から見たらあっという間の、今の時間に絞っても世界中に溢れる何千万分の一にしか満たない僕ら。
 世界から見ればこんなにも小さくて、意味なんかないように思える僕らの生。だけれど、こんなにも様々な思いや出来事や、自分以外の誰かとのかかわりに満ちている。どんな人にでもその人の歴史があり、思いがあり、未来がある。
 この世界に、代わりのある命なんてない。そんな当たり前のことに気付いたのは、本当に、ごく最近のこと。
 イスクさんがイスクさんの両親にとってかけがえのない存在であるように、ジェンシオノ氏がイスクさんにとって決して手放せない存在であるように。
 誰かは誰かにとって、代替不能な誰か。
 関係のない人から見れば十把一絡げでしかない存在は、少なくともその人と、その周りにいる人たちにとっては、かけがえのないもの。
 だから、すべての命には価値があると、僕はそう思えるようになった。だからこそ、命を生み出すということが、以前とは桁違いの重さで、実感される。
「凄いことですね、イスクさん」
 僕はそう呟いていた。そんな凄いことが今、目の前で起きているのだ。数ヶ月もすれば、今は此処にまだいない小さな赤ん坊が、イスクさんの腕の中で寝息を立てているはずだ。
「そうね。……だから、わたしは、行かなきゃいけない。わたしにはなくしたくないものがいくつもあるの。それは、わたしが国の出してきた条件を呑まなければ、なくなってしまうかもしれない。大丈夫よ。大人しく従ってさえいれば、わたしも、この子も、両親も、始末するメリットは向こうにはないはずだから」
 イスクさんは冷静に、自分がどう動けば、一番なにも失わずに済むかを考えたのだろう。
 そして選んだのが、家族とジェンシオノ氏と共に生きるという選択肢。
 選ぶまでに迷いがあったとしても、きっとこの人は後悔しない。イスクさんはいつだって、そういう風に生きている。自分が何を望むのかをしっかりと見据えて、その為に失うものの重みを知っていても、中途半端な手は取らない。
 この人の決してぶれることのない生き方を、僕は心底尊敬している。
「今回は、誰の命も天秤に掛けなくていいんだもの。あのときよりも簡単な話よ。この世界に取り返しがつかないものなんて、命ぐらいしかないわ。生きてさえいれば、失ったものを取り戻す手立ては、必ずあるはずよ」
「ん、そうだね」
 フィズはそう言って、頷いた。
 その胸にどんな思いがあるのかは、僕にはわからない。
 フィズはイスクさんの目を見ていなかった。だけれども、直ぐにいつもの、昨日今日とはあまり見せてくれなかった質の悪い笑顔を浮かべて、冗談っぽくこう言った。
「しっかしまさか、元彼と親友のできちゃった宣言をこんなに早く聞くことになるとはねぇ。私がドラマのヒロインみたいな性格だったら、イスクのお腹掻っ捌いてるところよ?」
「フィズラクがそういう子じゃないってわかってるから言うのよ。先生よりわたしのほうが大事なのも、もう未練がないのも知ってるしね」
「……余裕だなぁ」
 僕は思わず呟いた。
 いつだってこうだった。フィズが何を言い出しても余裕でかわしてみせる。フィズの冗談なのか本気なのかつかないような発言に、わかっていても慌ててしまうのは僕だけ。時々フィズのかます少々アレな発言に関してだけは、強烈な平手打ちが返ってくるけれども。
 楽しかったな。
 そんな風に思ってしまうのは、多分、少なくとも暫くは、もしかしたらもう二度と、会えないから。
「余裕よ。だって、フィズラクのことなら、だいたいわかるもの。もう十九年も、一緒にいたんだから……」
 そう、口にした瞬間。
 イスクさんの目元にじわりと涙がこみ上げたのを、僕は見た。
 それをフィズは見ただろうか。直ぐに拭って、イスクさんはまた、笑ってみせた。
「だから話せるの。わたしは幸せよ。だからフィズラクも、必ず、わたしと同じぐらいには、幸せになってほしい」
「……ほんとに余裕だよね、イスク。あんただって結構のっぴきならない状況といえば状況なのに、私の幸せまで願ってくれるんだから」
「何言ってるのよ。フィズラクが不幸なのより幸せなほうが、わたしだって嬉しいに決まってるでしょう?」
 またいつものやわらかな笑顔で、イスクさんはそう返す。フィズも、柘榴石と猫睛石の目に涙を一杯に溜めて、けれども、泣きはしなかった。
「サザ君、あなたもよ。サザ君のことも、十三年見てきたんだから。……わたしのかわいい弟分なんだから、必ず、幸せに生きてね」
「わかってます」
 そう答える以上の言葉が、浮かんでこなかった。
 何を言っても余計な付け足しになってしまいそうだった。
 その夜は、イスクさんも加えてみんなで食卓を囲んだ。この間僕たちが買った七枚のスープ皿すべてがテーブルに並べられた。
 ばーちゃん、じーちゃん、スー、レミゥちゃん、イスクさん、フィズ、僕。
 この皿が七枚すべて一度に使われることは、もう、ないかもしれない。
 そう思うと、食卓を離れることがなんとなく惜しくて、なるべくゆっくりと、スープを口にした。
 みんな、笑っていた。思いつくままに喋った。この今が、ずっとずっと、続けば良いのにと願った。
 この席で、イスクさんは正式な研究員に昇格すること、それに併せて両親と共に公宅に転居すること、子どもができたこと、近々、ジェンシオノ氏と正式に入籍することを報告した。
 昇格と転居については、どこからどうみても体の良い監視であることはばーちゃんたちもわかっていたので、特に深くは追及しなかったのだけれど、妊娠と結婚予定のことについては、こんなに驚いた顔は僕らでも見たことがないと思うぐらい、目を丸くしていた。