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なつきすい
なつきすい
novelistID. 23066
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閉じられた世界の片隅から(3)

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 どうして、こんな些細な日々すら、許してもらえないのだろうと。レミゥちゃんは今でこそなんとか笑っているけれど、連中がやってきてから暫くの間は、「自分のせいだ」「ごめんなさい」と繰り返し、何度も何度もこの家を飛び出していこうとしたのをスーが必死で宥めていたらしい。
 どうして、こんなに小さな子がそんな思いをしなければならないんだ。
「大丈夫だ。イスクだよ。出ておいで」
「イスク?」
 ばーちゃんの声を聞き、フィズが扉の影から出た。僕もそのあとを追う。玄関の扉はもう閉められていて、外から様子を伺うことはできない。
「……おかえりなさい、フィズラク、サザ君。帰ってきてくれて良かったわ」
 そう言うイスクさんの表情は、笑っているのに、どこか寂しそうで。
「イスク、どうしたの?」
 それに気付いたフィズの声音も、途端に不安そうなものとなる。
 イスクさんたちは、最後まで脱出せずに残っていた家族のひとつだ。理由は、イスクさんの立場と、ジェンシオノ氏の存在。イスクさんはご両親に早めの避難を勧めたが、イスクさん自身がどうすべきか迷っている。イスクさんのことを目に入れても痛くないだけ可愛がっているご両親が、置いてさっさと逃げ出せるわけがなかった。
「大丈夫大丈夫。……外に出ても平気かしら? 離れのほうで話しましょうよ」
 そう言うとイスクさんが先になって玄関を開けて、きょろきょろと周囲を見渡す。監視されている様子がないことを確認すると、僕たちはなるべく急いで離れの玄関を開けた。
 とりあえずお茶を入れようと薬缶を火に掛けた。一足先にイスクさんと共に席についているフィズは、不安そうにイスクさんを見詰めていた。
「そんな顔しないで。栄転よ。正式な研究員になることに決まったの。……それで、国が用意してくれる公宅に住むことになったの。城下町のほうの結構な高級住宅街にあって、三階建ての新築。間取りを見せてもらったけれど、相当広くて綺麗なお家よ。そこに、お父さんとお母さんと……近々、ジェン先生も一緒に住むわ」
「それって、あんた」
 その続きを言うのは憚られたのか、フィズが言葉を止めた。破格の待遇。だけど、それが意味することは、僕にだってわかった。
「わかってる。体の良い監視よ。幸か不幸か、軍にとってわたしの利用価値は小さくはないわ。しかもそれは、研究者としての利用価値。だから、わたしが自主的に協力するようにしないと困るのよ。お父さんとお母さんは、衣食住を高水準で保障されてわたしと一緒に暮らすことのできる人質。それはわかっているわ。わたしも、お父さんたちも」
「そんな……」
「お父さんは、わたしの好きなようにすればいいって、言ってくれたわ。一緒に逃げても構わないし、囮になってもいいって。でもね」
 イスクさんは、僕たち以外誰もいないのに、少し耳を貸してね、と言って小声でささやいた。
「わたしの身体は、もうわたし一人のものじゃないの。だから、危険は冒せないし、今先生と離れ離れになるわけにはいかないわ」
「え?」
 フィズはきょとん、とした顔でイスクさんを見詰めた。僕も同じような顔をしていただろう。イスクさんは少し顔を赤らめて、しかし、先ほどまでの沈んだ笑顔ではなく、確かに幸せそうに笑っていた。
「え? え? どういうこと?」
 どういうこと、とは聞きつつも、フィズはわかっているはずだった。先ほどの言葉から少しだけ間を置いて、僕ですらその言葉の意味を理解できたのだから。
「え、えええー!? ちょ、イスク、あんたっ」
「大声出さないで、健康に障るわ」
 わたしのじゃなくてね、とイスクさんは付け加えた。フィズは目を白黒させて、その表情がくるくると回った。
「まだ生まれるのは当分先よ。冬の後半ぐらいになるかしら」
 その言葉を聞いて、フィズは二、三秒考えるような表情をしてから、ぽつりと呟いた。
「ジェン先生、手、早……」
 思わず漏れた素直すぎる感想に、顔を真っ赤にしたイスクさんの平手がお見舞いされた。
「そういうのを逆算するのはやめなさい品がないわね!」
「だってあんた先生と付き合い始めたの私が寝込む直前だったじゃない! ってことは」
 ああ、例によって聞かなかったことにしたい。
 だけど、こんな身も蓋もない会話ですら、今は聴いていたかった。
 イスクさんが研究員という立場で監視されるようになったら、多分、もう二度とこんな時間は訪れないから。
 そう、イスクさんがお別れの挨拶に来たのだということを、僕もフィズもわかっていた。
「あー、ともかく、おめでとう、イスク」
 少し困惑した表情を浮かべつつも、フィズはそう言って、イスクさんのお腹のあたりを見詰めて、しゃがみこんだ。
「此処に、赤ちゃんがいる……なんかそれって凄いね」
「男の子みたいな感想ね」
 イスクさんはくすりと笑う。
「ちょっと触ってみていい?」
「ええ。そっと、ね」
 イスクさんが笑う。フィズはその華奢な手で、恐る恐る、といった様子でイスクさんに触れた。
 掌を当てて暫く、なにやら考え込むような表情をしていたが、やがてすっと手を離した。
「まだ全然わからないね」
 その言葉を聞いて、イスクさんはそれはそうよ、と笑った。
「ねえイスク」
「なあに?」
「今、幸せ?」
 フィズが尋ねる。イスクさんは一瞬だけ表情を曇らせたけれど、またすぐに、柔らかな笑顔に戻った。
「最高ではないわ。でも、幸せよ」
「………そっか」
「明日の夕方には引っ越すわ。今お父さんたちはその準備で忙しいのだけど、大事な時期なんだから休んでろって、フィズラクたちに会っておいでって、言ってくれたの」
「そっか」
 わかってる。多分それで、少なくとも暫くは会えない。
 イスクさんは軍から監視される立場となり、フィズは軍から身を隠す立場だ。
 この馬鹿げた戦争や諍いが終わるまでにどれだけかかるかはわからない。けれど恐らく、それが終わるまでは会えない。
「ごめんなさいねサザ君、そういうわけだから、講義は少し産休と育休を取らせてもらうわね」
「はい。そうか、イスクさんが、お母さんになるのか……」
 言うと、イスクさんは優しくお腹に手を当てる。
「そうなのよね。自分でも、こんなに早くそのときが来るとは思ってなかったわ」
 フィズは手を離しても暫くイスクさんの腹部を見詰めていたが、ふと顔を上げた。
「ねえ、イスク。……子どもが出来るって、どんな感じ?」
 イスクさんは少し考えこんで、それから、笑った。
「まだよくわからないかな」
「そういうもん?」
「少なくともわたしはね。わかったのは、……ううん、わかってない。なにもわかってない。ただ、命を粗末にしてはいけないってことくらいかしら。そんなの、小さいときから、わかってるはずなのにね」
 イスクさんはそっと、お腹を撫でた。外見からではわからないけれど、その中では今、凄いことが起きようとしている。
 なにもないところから、命が生まれる。それは、本当にすごいことだ。
 それは、望まれようと望まれなかろうと関係なく。