閉じられた世界の片隅から(3)
次に会えるのは、いつになるだろう。十分に時間を稼いで国境を越えたら、まずは治安が割りと良くて、寄宿舎のある学校のある街を片っ端から当たってみるつもりではいる。そういう街はいくつもあるものなのだろうか。あの街以外の生活を知らない僕には、他の街はどんなものなのかなんて想像も付かない。
「……さ、気合入れ直しますか」
そう言ったフィズの両目は、未だ沈む夕陽のような柘榴石の赤で、その声に、その表情に、僕はぎゅっと胸を締め付けられる思いだった。
こんなに、綺麗なのに。多分フィズにとってこの瞳は、忌むべきものなのだろう。それが、とても悲しかった。これほど綺麗な目を、僕は他に知らないのに。あともうひとつ知っているとすれば、今は見えない、月のような輝きを放つ金色の猫睛石ぐらいで。
「うん」
返事を返す。鞄の中から念のため銃を取り出して、いつでも使えるようにベルトに引っ掛けた。フィズはずっと、街道の向こうを見詰めていた。僕はその姿を、ただ、見ていることしかできなかった。
古ぼけたランプの明かりは、汚れた硝子のせいか、薄ぼんやりとしていた。とても本を読んだり、書き物を出来るような明るさはないけれど、窓から差し込む月明かりと併せて、一応、部屋の中になにがあるかを確認することはできる。
小さなテーブルの上に、先ほど屋台で買ってきた食べ物を並べるけれど、フィズは何口か口にしただけで、直ぐに「ごちそうさま」と言って、ベッドに潜ってしまった。
「大丈夫?」
「あんまり……」
声にも、明らかに力がない。相当具合が悪いのか、それとも、疲れているのか。或いは。
軍人たちを足止めするのは、思った以上に簡単なことだった。何の目的があるのかはわからないけれど、とりあえず今日追いかけてきた連中の中に、シフト少将の姿はなかった。
フィズが本気になれば、あんな連中を力で押さえつけることなど容易かった。たったひとつ難しかったのは、とにかく致命傷を負わせないように、酷い後遺症の残りそうな怪我を負わせないように、かといって僕たちがやられることのないように絶妙に手加減をする必要があったこと。
その点、フィズは完璧すぎるぐらい完璧だった。まずは武器を壊して戦力を削ぎ、怪我をさせるにしても、綺麗に治りそうな形で骨を折った。僕も全員の目がフィズに向いている隙に、馬車を一台壊して、中に積んであった火薬に水を掛け、ついでに馬を逃がした。あとは、いかにも僕らがレミゥちゃんを匿っているように思い込ませるためのちょっとした芝居ぐらい。それらしくさりげなくちらりと視線を動かしてみたり、やっぱりフィズには役者の素質があるのかもしれない。
馬は逃げ出し、怪我人もいて、武器も何割かは使い物にならなくなり、足止めとしては多分、十分すぎる出来だったと思う。僕もとりあえずフィズの足を引っ張らないという最低限の目的は果たせた。
だけど、最後に地面に大穴を開け、その中に連中を放り込んで、悠々と船着場へと向かおうとしたその時に。
「化け物」
そう言われた瞬間の、フィズの表情が、目に焼きついて離れない。
怒ってはいなかった。それに、少なくとも家での立ち回りの時は、意図してそう見られようともしたのだろう。だけれど、それでも、シフト少将と対峙したあの時のような悲しそうな目を、僕はずっと忘れることなんてできないだろう。
その後、川を渡り終えてから暫くの間は、普段通りに笑って、いつもみたいに身も蓋もないことばかり口にして、流石に衝動買いだけはしなかったけれど、本当に、いつものように、いつものように振舞って。それが見ていて僕は辛かったけれど、だけどフィズがそうしたいのなら、僕もいつも通りにするだけだ。時折隠し切れない辛そうな表情も、心労のせいだろうと思っていて。
結局フィズは宿場町に辿りついた所で、突然ぐったりと膝をついて倒れた。慌てて担ぎ上げて宿屋に入ったのだけれど、熱はなかった。むしろ、身体は不気味なぐらい冷たかった。聞けば、空を飛んでの移動は、普段の魔法以上に体力を消耗したらしい。その後の小さな戦闘もなんの問題もなくあっさりとこなしていただけに、疲れがあるようには見えなかったのに。どうして言ってくれなかったんだとは思うけれど、それ以上に見抜けなかった自分があまりにも情けない。一応、医者だというのに。もう何年も、毎日毎日ずっとフィズを見ているのに、変化に気付けなかったなんて。
「ごめん、フィズ。無理させて」
「あー、大丈夫大丈夫」
「大丈夫じゃないだろ」
心底、情けなかった。腕っ節という面においてはどう考えても足手まといにしかならない僕が役に立てる局面があるとすれば、体調管理とかだろうに。それすら気付かず見落として。
額に触れる。ひんやりと冷たくてぞくりとした。まるで、生きた人間の身体じゃないみたいで。
「ちょっと飛ばしすぎて疲れただけ。今は具合良くないけど、寝て起きれば治ってるよ。心配事も特にないしね。ばーちゃんも絶対大丈夫だよ。やー、あのときのあのクソ男の表情、ホント見ものだったよ。あんたにも見せてあげたいぐらい」
本当に? そう聞きたくなるぐらいに、身体は冷たい。食欲もほとんどない様子なのに、疲れた顔ながら、表情だけは笑っていて。
「ねーサザ、お茶淹れてー」
と、いつもの調子で言ってきて。だけどその時、僕は珍しく気がつけた。ああ、泣きたいんだ、と。お湯をもらいにいって、お茶を淹れているほんの数分の、一人になれる時間の間に。
だけど、それをはっきり言っていいものだろうか。ひとりで泣かせるのは嫌だ。だけど、涙を見せたくない気持ちだってわかる。それでも、抱え込んで欲しくは絶対にない。
僕だったらどうしてほしい。問いかけても答えはない。あの家が恋しくて泣いている姿だったら、絶対に見られたくないと思う。勿論、自分を責めて泣くのだったら尚更だ。だけど、後者なら絶対に、ひとりで泣かせたくなんかない。
「うん。お湯持ってきてもらおうか」
「……自分で取りにいきなよ」
やっぱり。こんな風に、当たってほしくない予想ばかり当たる。
「いいだろ。なんか今フィズと一緒にいたいんだから」
「……ストーカー?」
声も言葉も刺々しい。わかってる。はっきりひとりになりたいとは言わないくせに。
ひとりで泣かせてあげるのと、そうさせないのと、どっちが正しいのか、僕には正直わからない。だから、これは完全に僕のエゴだ。
「さっき一緒に泣こうって言ったのは誰だよ?」
「うっ」
ああもう、あんなに無駄に芝居が上手いのに、どうしてこういうときはこんなにすぐ顔に出るんだろう。
放っておけるわけないだろ、こんな人を。僕の大切な人。誰よりも綺麗で、可愛い人。強いところばかりたくさん知っていた。今は、弱いところもあることも知っている。必死でそれを隠していたことも。
「どうせ戻れるから大丈夫って言ったのはサザよ」
「でもひとりで泣くより良くない?」
変わりたい。少しでも、頼られる僕に。無理して強いところばかり見せないでもらえるぐらい、強い僕になりたい。
そう思って、もう何ヶ月になるだろう。
少しでも、僕は望む僕に近づけたのだろうか。
「…………………」
作品名:閉じられた世界の片隅から(3) 作家名:なつきすい