閉じられた世界の片隅から(3)
それまでの、ほんの少しの間。僕はぼんやりと流れる川を見ていた。スーはじーちゃんの目の届く範囲内で、あまりあの街では見かけない植物を見て喜んだり、川べりに座って手を突っ込んだりして遊んでいた。
谷底にあって、水はけの良くないあの街には、小さな川があちこちに流れていて、特に雪解けの時期となれば、普段は乾いている場所であっても川のように水があふれかえることが良くある。何年かに一度は洪水に見舞われることだってある。だけれど、こんなに明るくて、大きな川を見るのは初めてだ。
「面白いだろ?」
気付くと隣にじーちゃんが腰掛けていて、僕を見ていた。
「こんな大きい川、初めて見るよ」
そう言うと、じーちゃんは、からからと笑って、ポケットから地図をひとつ、取り出して。
「まだまだ。こんなの、それほど大きい部類には入らんよ。ほら」
地図の中の、細い線をひとつ、指差す。
「この線が、この川な。で、これを見て」
動く指を目で追う。
「俺が見たことのある一番大きな川が、これだよ」
指差したその先に描かれた線は、この川のものだと示されたものよりも、何倍もの太さがあって、多分僕は目を丸くしたんじゃないかと思う。
「これの五倍はあるよ」
「ああ」
じーちゃんはなんでもないことのように答える。想像も付かない。この川ですら、僕が知っている川よりも、ずっとずっと広いのに。
「でもその川でも、世界で一番広い川じゃないんだよねえ」
「……なんかもう、想像すらできないよ」
僕は、自分の中にある「川」というものの定義を修正する必要を検討していた。それぐらい、僕が今までに知っている川とは、桁が違う。
「まぁ、これから見に行けばいいよ」
そうじーちゃんは言った。広げた地図で、僕らが今いる場所と、僕らのいた街、そして件の川の距離を見てみる。遠い。大きな地図のかなり遠くのほうに、件の川はある。僕らのいた街とこの川は、ほんの僅かな距離しかないのに。
「どれぐらいかかる?」
「うーん……あちこち寄り道しながらだったけど、歩きと船で……まぁ、一年ぐらいかな」
一年。そんなにかかるのか。一年歩かないとたどり着けない距離がどれぐらいのものなのかも、僕にはまったくぴんと来なかった。あの、フィズを連れ戻すための数日間の旅ですら、長く感じたのに。
「一年ぐらいなら大したことはない。十分に行って帰ってこれる距離だよ」
「そういうもんなんだ」
なんでもないように、じーちゃんが言うので、僕の声には少し、驚きが混じっていたかもしれない。だけど、考えてみればじーちゃんが何年も帰ってこないのなんか当たり前のことで。
「そっか、」
その次に言いかけた言葉が、あまりにも、多分じーちゃんみたいな人にとってはあまりにも当たり前のことのような気がして、僕は口に出さずにそのまま飲み込んだ。
世界って、広いんだな。
だから、言わないで、僕はただ川に手を差し入れてみた。夏の少しだけ暑い空気の中で、ひんやりとした水が指の隙間を冷やしていくようで心地よかった。
この川は山の上から流れてきて、遠く海まで続く。渡る分には渡し舟がないと通れない難所である一方、水運の要でもあるらしい。船で外国へ逃げることはできないのかと聞いてみたけれど、水の少ないこの時期は、海に出られるほど大きな船はほとんどないらしい上に、その類の商船や客船はすべて通過する国への登録義務があるらしく、難しいだろうとのことだった。
船。本物を見たのも今日が初めてだ。この渡し舟は船の中ではかなり小さい部類に入り、この川を渡りきるのが精一杯らしいけれど、それでも物珍しいことに変わりはない。やはり船についてもじーちゃんは、その中で何ヶ月も滞在できるような大きな船に乗って旅をしたことがあるらしいのだけれど、最後のほうは塩分の濃い食事ばかりで具合が悪くなりかけたと言っていたっけ。
目の前に広がるものすべてが、初めて見るものばかりで、ぼんやりと眺めているだけでも時間があっという間に過ぎていく。もうどれぐらい過ぎたのか、太陽の傾き方で確かめようとした、そのときに。
「おー、来た来た!」
というじーちゃんの声が耳に入らないぐらいの驚きだった。
「……楽しんでるなぁ、絶対」
やっとやっと、口から出たのはそんな言葉。なるほど。最短距離を突っ走れるからこれなら地面を走るよりずっと速いし、連中を撒くのも簡単だ。その上、陽動としてはこの上ないほど、目立つ。
「お待たせーっ!!」
昔々、魔法が今ほど誰でも使える技術ではなかった頃、魔法がなんでもできる技術だと思われていた頃、多くの人の憧れは空を飛ぶことだったらしい。今では人間の扱う魔法がそこまですごいものじゃないとわかったし、魔法自体が一般化しすぎてそんな憧れを持つ人は減ってしまったけれど。
「空を飛ぶ魔法使いなんて、お話以外で初めて見た」
「あはは、すごいでしょ。気分最高! あんたも一緒に飛んでみる?」
「危なくない?」
「全然?」
本当に危なくなかったかどうかはフィズに聞くより、そのフィズにしがみついているレミゥちゃんに聞くべきかも知れない。フィズとレミゥちゃんは、輸送用の木箱に入って空を飛んで来た。
そういえば以前、どうして魔法で空を飛ぶのが難しいのかを聞いたことがある。その答えは、まずは物を浮かすということにそれなりにエネルギーが必要なこと、それを維持するのはもっと大変なことだそうだ。その上人間などの生き物は魔力と生命力を両方持っていたり、魔法に対する抵抗力が人によって違うので、バランスを取り続けるのはフィズでも難しいらしい。じーちゃんであればそのあたりの細かい技術はできなくもないのだけれど、長時間浮かせ続けるほどの魔力はないという。
フィズの瞳を見る。いつもであれば、左右で色の違う宝石の目。それが今は、両方とも柘榴石の赤い瞳に変わっている。とりあえず、エネルギーの面については力技で押し切ったらしい。そして、フィズがどちらかというと苦手としている、それでもその辺の軍人なんかよりは余程できる細かいコントロールについては、生き物じゃなくて箱を浮かせてそこに乗る、という方法で乗り切ったようだった。物を浮かせるだけなら技術的にはさほど難しいことではない。正直、箱の底が抜けなくて本当に良かったと、今更僕は血の気が引いてきているのだけれど、多分フィズはそこまで考えなかったに違いない。ああ、無事でよかった。本当に。
僕がはらはらしているのに気付いているのかいないのか。多少乱暴に箱を地面に着地させると、ひょいとフィズが飛び出してきた。背丈の低いレミゥちゃんは、じーちゃんに抱き上げてもらって箱から脱出する。良かった。とりあえず怯えてはいない。
「吃驚した?」
「それはもう」
まったくもう。そんな言葉しか出てこないけれど。
「おつかれさま」
そう、ちゃんと言うことができた。
本当に、お疲れ様。あのあまりにも衝撃的な到着に一瞬忘れてしまったけれど、実際に軍人たちの前で、件のどこまでもきつい台本を、見事に演じきってきたのだろう。フィズの顔は晴れやかだった。
「ん、ありがと」
「お疲れさん、フィズラク」
じーちゃんが声を掛けると、フィズは口の端を上げて笑った。
作品名:閉じられた世界の片隅から(3) 作家名:なつきすい