閉じられた世界の片隅から(3)
フィズの事だ、本当は申しわけなさでいっぱいかもしれない。たったふたり、僕とスーが人質に取られただけでもあっさり自分を諦めてしまったぐらいのフィズだから、街全体を人質に取られたとなれば、どれだけ、辛かっただろう。
だけど、フィズは逃げないって言ってくれた。だから、僕はこの人を、精一杯支えるだけ。
僕は、一度だけ振り返った。僕らを見送ってくれるばーちゃんの、今までで一番厳しくて、一番優しい顔が、そこにあった。
慌てて前を向き直った。もう振り返らない。振り返れない。もう一度振り返ったら、多分、泣いてしまうから。
情けない。フィズの心配をしてる場合じゃない。今、今やっとやっと、実感が本当に涌いてきた。
十三年過ごしたこの場所から、離れるということ。
ずっと僕を育ててくれた、ばーちゃんと別れるということ。
「本当にありがとう、ばーちゃん」
こういうことは、ちゃんと顔を見て言うべきなのは、わかってた。だけど、できなかった。もう一度ばーちゃんの顔を見たら、間違いなく、僕は泣く。
「元気で、ね」
ああ、声を出すだけで。
本当に、本当に、涙が出そうだった。
それを悟られてないことを、ただ祈る。そういえばもうどれぐらい、僕は泣いてないだろう。フィズのことを忘れたときだけは、少しだけ、泣いたけれど。
それぐらい、楽しかったんだ。幸せだった。何にも怯える必要なんかなくて。未来のことを考えることがなかったぐらい、現在が安定していて。
泣いた顔を人に見られるのが嫌だったかどうかすら、思い出せない。それでも今、此処で泣き出してしまいたくはなかった。ばーちゃんにもじーちゃんにも、フィズにも、心配をかけたくなかった。
「ああ。お前たちも、必ず元気で」
その言葉を聞きながら、僕は、家の戸を開けた。外から差し込む朝の陽は、思わず眼を閉じてしまうぐらい眩しくて、ぎゅっと瞼を閉じたら、一滴だけ、涙が落ちたのがわかった。
僕は、一回だけ振り返ったときに見たばーちゃんの顔を、絶対に忘れない。
だけどさよならは、言わない。帰ってきたいから。また、会いたいから。
服の袖で涙を拭う。それが、フィズに見られていなければいいなと思うけれど。
外に出て、夏の風が吹き抜けて、扉が、しっかりと閉じてから。
「……後で、思いっきり一緒に泣こっか」
フィズがぽつりとそう口にして、ああ、全部お見通しだったんだな、と。
「大丈夫だよ。どうせ、また帰ってこれるよ」
僕は何をしてるんだ。此処で泣いたら、フィズを傷つける。笑え、とまでは思わないけれど。
「絶対、大丈夫」
この言葉は、フィズに言ったのか、それとも僕に言ったのか。それすらわからないけれど。
「ん、そう」
フィズは短く、そう応えて、それから何も言わなかった。
見張られている可能性を考えて、いかにも家から逃げ出しましたという風に、暫く走って。
「じゃあ、川の手前で待っててね」
と、フィズは言って、荷物を僕に預けて引き返した。
この位置からなら、徒歩で、交渉の時間には十分に間に合う。僕は僕で、多少のんびり歩いても、フィズがレミゥちゃんを連れだす頃合までには約束の場所まで余裕でたどり着けるだろう。だけど、レミゥちゃんを連れ去ったフィズは、どうやって僕らに追いつくつもりなんだろうか。それを尋ねた時のフィズが、明らかになにやら悪巧みをしている顔だったので、どうも続きを聞きにくかったのだけれど。
持ち上げてみたフィズの荷物は、予想していたのよりずっと軽くて、僕は少し驚いた。あの大量の荷物の中から、どうやって選んだのだろう。僕の荷物のほうが重いぐらいかもしれなかった。
少し重いけれど、大したことはない。二人分の荷物を担いで、僕は急ぐことなく道を歩いた。
暫く歩くと、早足で出てきたじーちゃんとスーも合流し、三人で街道を先へ先へと進む。スーは、レミゥちゃんの荷物は自分が持つと言い張ったらしく、二つのリュックサックを背負っていた。その眼は、遠目に見てもわかるほどに真っ赤で、だけど口調は何時も通り強気だった。
歩きながら、僕らはたわいもない話ばかりを続けた。次々と軽い話題を見つけては振ってくるじーちゃんは、まるでもう重たい話はし尽くしたとばかりに、笑っていた。その代わりに、鞄の中の取り出しやすい位置に収まった万能ナイフが、ずっしりと重いような気がした。
僕の荷物に入っているもの。それは、実際の旅で使う必需品ばかりじゃない。じーちゃんの最後の願いだとか、ばーちゃんが守りたがったものだとか。そんなようなことを、柄にもなく考えて。
ふと、スーを見た。小さなスー。生まれたときから良く知っているけれど、次に会う時にはどれだけ大きくなっているだろう。勿論、運が良ければ国境を越えて直ぐに合流できるかもしれない。だけれど、僕らの動向に構わず、じーちゃんはふたりを連れて、とにかく安全で、かつじーちゃんがいなくてもふたりの生活基盤を維持できるような場所を探すことになっている。僕らに万が一のことがあったり、或いは相手を撒くためにやむを得ずルートを変更することもありえるからだ。隣国は広い。早い段階で合流できなければ、それこそ戦争が終わって、安全にこの街に戻ってこれる目処が経つまで会えないかもしれない。それは、何年先の話になるだろう。或いは、すっかり新しい生活に馴染んでしまって、帰ることを考えないことだってある。子どもの適応力は、大人のそれよりはるかに高いから。
だからせめて、今のスーの姿を、ちゃんと覚えておこう。僕らが十年経ったって見分けが付かないほど見た目が変わるとはもう思えないけれど、十年後のスーは十八歳、レミゥちゃんは十七歳、ふたりとも今の僕よりも年上になる。どんな子に成長しているだろう。想像もつかなかった。
だけど、元気で、楽しくやっていてくれれば良いと思う。再会を願う思いよりも、多分、こっちのほうが僕にとっては大きかった。大丈夫、スーは賢いし、じーちゃんもついているし、レミゥちゃんとも一緒だ。それに僕らが時間を稼げば、ちゃんと無事に国境を越えられるはず。大丈夫、この子はきっと、幸せになれる。そう、信じるし、スーたちが無事に逃げ切れるように、僕は全力を尽くす。
そしてやっぱり、実感するのだ。同じきょうだいとして育ったのでも、スーに対する思いと、フィズに対する思いが、まったく違っていることを。
どちらも、幸せでいてほしいと願うのは同じ。だけど、スーの場合は、幸せでいてくれればそれでいい。例え離れ離れでも、元気でやっていてくれればいい。フィズは違う。フィズが幸せでいるその隣に、僕がいたいと願う。
しっかり、しないとな。心の中で呟く。遠く離れ離れになるかもしれない妹たちの幸せを守るために。フィズの隣に立ち続けるために。僕にできることは何かを探して、そして、それをやり遂げる。
僕は多分、諦められないから。僕にとって大切なものたちを。僕の願いを。後悔なんか絶対にしたくない。
僕らは歩いた。街道を川のほうへと向かって。フィズたちと合流し次第、僕らは川の手前で待機し、みんなは先へ進む。
作品名:閉じられた世界の片隅から(3) 作家名:なつきすい