閉じられた世界の片隅から(3)
僕の荷物はだいたいこれでまとまった。これが終わってしまえば、やらなくてはいけないことはない。フィズの部屋に様子を見に行ってみると、案の定僕以上に荷物の取捨選択と詰め込みに悪戦苦闘しているフィズがいた。どう考えても、フィズが持てる量ではない。かといって今回はいつもの買い物とは違う。僕だってそれなりに荷物が多く、長旅になるかもしれないことを考えると「僕が持とうか?」とは言い出せなかった。
「しょうがないじゃない。本当は、ここにある荷物全部持って行きたいぐらいなんだから」
「筋骨隆々とした屈強な人たちが何人必要になるだろうね……」
僕が言うと、フィズは少しだけ不満そうに、表情を歪めた。
「今は別に冗談言ってないよ。……物って全部、思い出があるから。だからどれは捨てて行っても良くて、どれは持って行きたいなんて、区別できないでしょう」
昔、似たような言葉を、やはりフィズから聞いたことを、僕はなんとなく思い出した。それは、例によって部屋が片付かなかったときのこと。部屋に散乱するあれやこれやは、本人以外には、あるいは本人にとっても実用性皆無のがらくたにしか見えなくて、片付けられないなら全部捨てろとばーちゃんが言ったときだったと思う。
「ごめん」
僕は素直に謝った。その言葉がただの言い訳じゃないことを、僕は知っていたから。フィズが物を片付けられないのはともかくとして、捨てられないのは、本当にそれらひとつひとつに愛着を持っているから。
「とはいえ、どうしようか………」
フィズは全部一箇所に纏めたら小さな小山になるであろう大量の荷物を前に途方に暮れる。最低限持っていかなくてはならないものは、旅慣れしているじーちゃんが教えてくれたので用意してあるらしいのだけれど、問題は、それを越える部分。
この間のスープ皿は、手先の不器用なフィズにしては丁寧に、しっかりと梱包されて持っていくことが確定した荷物の置き場所に置いてあった。部屋の端に積まれているのは例えば出店や屋台で買い込んだ各地方の変わったオブジェやお守りであるとか、あまり内容については言及したくない感じの記録鉱石であるとか、そういうどう考えても旅の途中で使うことはないと思われるものたち。これらは、なんとか置いていく決心がついたらしい。問題は、その間にあるもの。誰かからもらったり、なにかの記念に買ったりした、使わないもの。
今回、置いていくということは、ほとんど捨てることを意味する。この家や、そこにあるものが無事である保証がどこにもないから。
「思い出の品は、覚えておけば良いんだよ」
そう言ったのは、やはり気になって様子を見に来たらしい、じーちゃんだった。
「思い出を持っていくだけなら荷物は空で済む。フィズラクの記憶力は、物がないと思い出を忘れるほど弱くないだろう?」
「ん、まぁ、そうだけど……」
わかってはいる、と思う。だけど、そう簡単に諦めがつくものでもないのだろう。山と積まれた荷物を見やると、イスクさんとお揃いで買った髪飾りとか、僕が誕生日に贈ったものだとか、そういったものが積まれていた。ああ、そういえば、もう直ぐフィズの誕生日だったっけ。お祝いをする余裕は、あるだろうか。そんなことを考える。更にその山の中に、一時ジェンシオノ氏と付き合っていた頃によく身に付けていたネックレスを見つけて、正直それは捨てればいいのにと思ってしまったりもする。
「じゃあ、関係ある人ひとりにつき一個ずつ持っていけば良いよ。なるべく、小さいもので。……例えば、イスクちゃんからもらったものからひとつ、カラクラに関わるものをひとつ、っていう風にねえ。カラクラとスゥファが一緒に選んでくれたやつ、みたいに重複するところを探せばもっと荷物は減らせる。ひとりひとつだよ。あとは、自力で思い出せるようにするんだ」
フィズは首を捻りながら、小さく呟いた。
「そういうもんか……」
「そういうもんだよ、旅に出るってねえ」
フィズは暫く考え込んで、荷物の山を見詰めて。
「……まぁ、出るまでに考えるよ」
と、言って立ち上がり、大きく伸びをした。
「あー、こういう作業ってやっぱり疲れるよ。サザ、お茶淹れてー」
肩を回しながら、フィズが言う。続いて、首も回す。ばきばきと関節の音がした。
「はいはい」
僕は部屋を出て階段を駆け降りた。だいたいの食料品は母屋に運んだけれど、お茶の道具一式はまだ離れのリビングに置いてある。お茶の種類は一種類だけ。カップは三つ。元々は、ばーちゃんと僕とフィズ、三人で診療所をやっていた頃に揃えたもの。
この台所でお茶を淹れるのも、今日が最後になるかもしれない。診療所の手伝いを始めた頃から、フィズとばーちゃんのためにお茶を淹れるのは僕の仕事になった。最初は、恐ろしく苦かったり、逆に味がしなかったりと散々だったのだけれども、少しずつ、少しずつまっとうな味になっていった。今では多分、うちの誰よりも美味しいお茶を淹れられる自信がある。この味になるのにどれぐらいかかったっけ。
不思議なのは、どう考えてもあの頃と比べて今のお茶のほうが絶対に、何段階も美味しいはずなのに、少なくとも当時自分の淹れたお茶をまずいと思っていて、今自分のお茶を美味しいと思っていることは確かなのに、その味の変化の過程を思い出せないことだ。フィズに消された記憶はもうすべて戻ったはずなのに。
毎日毎日、昨日のお茶と比べて味が変わったとは思えない。にもかかわらず、半年前のお茶と、今日のお茶は、確実に違う味がする。いつ伸びているのかわからないのに、いつの間にかはっきりと伸びている身長のように。この三ヶ月ぐらいで、また身長が少し伸びた。
僕にはそれが不思議でならない。変わっている最中はわからないのに、それが積み重なって大きな変化になって初めてわかる。けれども、そのひとつひとつの小さな変化に、どうして僕は気付くことができないんだろう。もしかしたら、今この瞬間も、僕は変わり続けているのかもしれない。だけどそれに自分で気付くことはないのだろう。
この一年で、僕は多分、それなりに変わった、と思う。自分でも。
当たり前だと思っていたものが、どれだけ大切なものだったかを知った。
その大切なものは、ほんの小さなきっかけで、失われうるものだということもわかった。
自分でなんとかしなければ、なんとかならない事態があることも知った。
自分がどれだけ今まで情けない奴だったかも、少なくとも一年前よりはわかったと思う。
それから、僕が気付かない振りをし続けていた思いの正体も。
これらのことに気付いたきっかけは、自分でも思いだせる。
だけど、もしかしたら気付いていない別の何処かで、僕はもっと大きく変わっているのかもしれない。それは、今の僕には知ることができない。
いつまでも、まったく変化しないものなんて、ないんだろうきっと。それが、僕の知った一番大きなことかもしれない。変わらないでいられないからこそ、なんでもない現在が、なによりもいとおしいのだということも。
変わらないものなんてない。周りの状況も、僕も、きっとフィズも。
だから、だからせめて忘れたくない。この現在を。気付けたことを。
作品名:閉じられた世界の片隅から(3) 作家名:なつきすい