閉じられた世界の片隅から(3)
大切だと思ったことを覚えていられれば、どんなに変わったとしても、僕は僕で在り続けられるんじゃないか、そんな気がする。
そんなことを考えているうちに、時計の針が少し進んでいて、僕はお茶のポットを軽く開けて香りを確かめた。いつもと、同じ。だけどもしかしたら、昨日とほんの少しだけ違っているのかもしれない。また半年も経ったら、その味は大きく変わっているのかもしれない。気付くこともなく、ごく、自然に。
その日の夜は、早かった。明日の朝、間違いなく早起きをするためだ。結局、僕とフィズが一緒に先に出て、その後にじーちゃんとスーが脱出、僕は川のところでじーちゃんたちを待ち、フィズは頃合を見計らって街に戻り、一度街に戻ったフィズがレミゥちゃんを連れて合流する、という流れに決まった。
惜しめば惜しむほど、大切な時間はあっという間に過ぎていってしまうのは、どうしてなんだろう。昼食も、夕食もあまりにも早く終わって、気付けば此処を出る時間まで、あと八時間もない。
眠れない。だけど、眠らなくては。そう思えば思うほど、尚更眠れない。
眠り薬はあるのだけれど、明日の朝綺麗さっぱり爽やかに目が覚めるような類のものではない。多分飲んだが最後目を覚ます頃にはすべてが終わってしまっているはずだ。かといって、眠れないまま明日に臨んで、みんなの足を引っ張るわけにはいかない。
部屋を出て、フィズの部屋の戸を軽く叩く。もしも眠っているなら、気付かないぐらいの音で。意外とはっきりした声で「何?」と返事。フィズも眠れないんだろうか。ドアを開ける。フィズはベッドから上体を起こして、こちらを見ていた。目はしっかり開いていて、眠そうな様子はなかった。
「眠れないんだけど、ぐっすり寝て明日の朝さっぱり目が覚めるようなことってできる?」
「疲れ果てるまで走りこみするとか」
「……いや、魔法とかで」
「あー」
フィズは首を振った。
「明日のお昼まで寝てていいんだったら、あるけど」
「それなら薬でいいんだよね」
「そうなんだよね」
フィズはそう言って、小さく頷いた。
「フィズも眠れない?」
「ん、ちょっとね」
ちょっと、と言いながら、その目に眠気はまったく感じられない。今日の夜は眠りの妨げになりそうな類のお茶や刺激物の類は口にしていないはずなのに。
ベッドの傍らに座る。フィズは咎めなかった。どうせ眠れないなら、もう少しだけ、此処に居たい。
フィズはふと、思い出したように、小さな声で、短い歌をひとつ歌い始めた。風のような、声。
特に高すぎも低すぎもしない、フィズの声。ふざけてわざと粘着した声や、娼館の女の人たちのような甘ったるい声で喋ることもあるけれど、普段の地声は草原を渡る風のような、一切の濁りやべたつきのない爽やかな、さらさらとした透明な声。
耳に心地よいこの声を、いつまでも聴いていたい。それは歌でも、言葉でも構わない。フィズの歌は下手ではないけれど、特別上手いわけでもない。歌唱力だけなら、旅芸人育ちのレミゥちゃんのほうが上のようだけれど、それでも僕は、フィズの歌と、声を、聴くのが好きだった。小さな子どもの頃から。最近は、仕事の合間に鼻歌を歌っている程度で、声に出して歌うのを聴くのは久しぶりのことだった。高音の伸びもあまりないし、時々メロディーラインが明らかにおかしいことがあるので、音程もところどころ外しているのかもしれない。ヘタでも上手くもないと思っていたけれど、よくよく考えると実は下手な部類に入るのかもしれない。
「眠くならない?」
「……そんなには」
心地よいけれど、眠気は今のところ襲い掛かっては来てくれない。普段は余計な場面でばかり襲来するというのに。
けれども、少し緊張が和らいだ気はする。この声を、聴くだけで。
「覚えてない?これ、私がサザに歌ってあげてた子守唄だよ」
記憶を手繰ってみる。僕がフィズに拾われたのは三歳ぐらいのときのこと。当時のことは、あまりよく覚えていない。今でもはっきりと思い出せるのは、初めて出会ったときの、フィズの顔ぐらいだ。その後暫く誰にも懐かずフィズやばーちゃんたちに多大なる苦労をかけたことや、フィズに懐いてからはいつでもどこでもついて回り、姿が見えなくなっては大騒ぎしてそれはそれでご迷惑をかけまくったことなどは綺麗さっぱり僕の頭から消え去っている。
このあたりの話はすべて、ある程度大きくなってからまわりに聞かされたことだ。なにかと手のかかる面倒な子どもではあったらしい。
「ごめん、思い出せない」
「そっか」
「でも、もう一回歌ってくれない?」
「ん」
短く答えて、フィズはまた、歌いだした。特に上手くもどうしようもなく下手でもない、その歌を。
目を閉じて、耳を澄ます。その歌声に、少しでも浸っていたくて。
短い歌。直ぐに終わる。小さな子に歌うときは、何回も繰り返し繰り返し歌うんだろう。
単純で覚えやすい歌詞、起伏の少ない音のライン。歌ってもらったほうは、それを覚えてはいなくても、でも、フィズの歌を懐かしいように感じるのは思い出すことのできないその頃の思い出のせいなんだろうか。
だけど多分、完全にその頃のことが思い出せなくても、僕はこの歌を心地よいと思うんだろう。この声をそう感じる限り。子守唄じゃなくていい。激しい曲でも、それどころかただの語りでもいいんだろう。もしかしたら、カルテを読み上げてくれるだけでもいいのかもしれない。朗読の天才は住所録を読み上げるだけで人を感涙の渦に叩き込めるんだとか。或いは、声の持つ力は言葉の意味に勝るのかもしれない。
「ありがとう」
「ん、どういたしまして。どう? 寝れそう?」
「どうだろう……」
変な緊張感みたいなものはだいぶ和らいだから、これからベッドに入って暫く目を閉じていれば、なんとか朝までには多少睡眠が取れそうな気がする。深く呼吸をひとつ。先程より大分、身体が柔らかい。
「少しは、効いたかな」
「そっか、よかった。ちゃんと寝れないと明日に響くからね」
そういうフィズ自身は、まだ目も声もはっきりとして。
「フィズは?」
「あー、自分の子守唄で自分が眠くはなんないよ」
少しだけ困ったように、片眉を下げて小さく笑う。今回、一番重要な役目を任されたのはフィズだ。先ほどの様子からして、フィズの実力から言って難しいことではないようだけれど、それでも、重圧は大きいだろうと思う。
その上、どれだけそんなことはないと言ったところで、フィズがこの事態を自分のせいだと思っていないとは思えなかった。フィズのせいではない、と言っても、なかなかそう思ってはくれないだろう。いつぞやの屋台の人が言ったとおり、悪い感情を信じさせることは容易いのに、そうでないことを信じてもらうのは難しい。相手を慮って取り繕う、なんてことはよくあることだから。フィズだってそうだ。
「じゃあ、僕が歌う?」
「ん、平気平気。一日二日寝れなくても大丈夫だよ」
まったくもう。声には出さないけど。明日一番忙しくなる人が何言ってるんだ。
「何か甘いものでも食べる?」
「あー、歯磨いちゃったからいいよ」
「もう一回磨けば?」
「夜中の甘いものは太るよ」
作品名:閉じられた世界の片隅から(3) 作家名:なつきすい