閉じられた世界の片隅から(3)
明後日の明け方には、僕らはこの家を出る。そして西へ向かう道を進み、じーちゃんたちは川を渡ったところで待機する。僕は、渡し舟の手前で、待つ。フィズたちと合流する前に街からこれだけ距離をとっておくのは勿論、軍部の追跡を振り切るためなのだけれど、レミゥちゃんを連れたフィズがどうするつもりなのか。そう尋ねところ、フィズは「まぁ楽しみにしててよ、主演女優自らド派手に演出してあげるから」と言って、にやりと笑った。一体何をするつもりなのかと思ったけれども、この様子では多分、実際にやってみせるまで話してくれるつもりはないだろう。「楽しみにしてるよ」と返すと、フィズの口元が楽しそうに上がった。
その夜はみんなで布団をリビングに敷いて、家族全員で一緒に寝た。ばーちゃんと同じ部屋に寝るのは子どもの時以来で、多分、スーが僕らの妹になってからは、別々だったはずだ。ああ、そうか。それで拗ねてスーを可愛がってあげられなかったんだったっけ。
眠気に負けてひとり、またひとりと寝息を立てるまで、僕らは話し続けた。いろいろなことを。昔のことを、今のことを、未来のことを。
明後日早起きするために、明日はこんなにのんびりと起きてはいられない。そう、思うと、この時間が惜しかった。
ご飯のときもそう。何気ないひと時も全部そう。当たり前だったはずの時間の大切さがわかるのは、失われることがわかってから。
どうして、気付けなかったんだろう。そう思ったときには、いつだってもう遅い。人も、時間も。当たり前だと思っていたものが当たり前じゃないことに、あの冬の終わりに僕は気付いたはずだったのに。
その後悔を、この数日間、ずっとずっと感じ続けていた。だからせめて、残された時間を、精一杯楽しみたかった。そして、せめてこれ以上同じことを繰り返さないようにと誓う。
残り一日。次の一日が明けたら、僕らは此処から旅立たなくてはならない。
一人、また一人と話すのをやめて、眠りに落ちていく。みんなの寝息に釣られて、いつの間にか僕も睡魔に飲み込まれていった。この一日の余韻を、できる限り、味わいながら。
その日は、まずは荷物の最終チェックから始まった。数日分の最低限の保存食、常備薬、地図、着替えに防寒着。メモ用紙とペン。お金と、いざというときに換金できそうな高価な薬や素材。なにかの役に立つかもしれないのでフィズが無駄に買い込んでいた魔法鉱石もそれなりの量を持っていくことにする。魔法工学の本も、一冊持って行こうかと思ったが、荷物は増やすべきではないし、本よりはフィズのほうが詳しいと思い、いくつか教えてもらった回路図をメモしたノートを持っていくことにした。
それと、この間のスープ皿。メッセージはまだ読まない。割れないように予備の衣服でくるんで、リュックサックに詰めていく。
衣と食は用意した。あとは住か。寝袋を小さく折りたたむ。夏の間に、なんとか野宿をする必要がない生活になっていればいいと思う。短い夏が終われば、あとは寒くなる一方だ。西のほうはここよりは暖かいはずだけれども、それでも冬に長期の野宿生活はしたくない。寒さが苦手なフィズなら尚更だろう。
今日も天気が良い。この感じならば、明日もきっと晴れるだろう。旅慣れない身での雨の中の行軍は多分とても辛い。この後雨が降る日がないわけはないけれども、せめて初日ぐらいは晴れていてほしいと思う。
荷物の詰め込みが終わる。背負ってみたのだけれど、かなり重たい。こんなものを背負って長く歩くことなんてできるのだろうか。それを見ていたじーちゃんに鞄を改められて、着替えと嵩張る薬の材料をいくつか取り出された。じーちゃんから見れば、かなり無駄な荷物が多かったようだ。それから、不足も。
「あと、これは持って行け」
と、渡されたのは、万能ナイフ。料理をするにも、物を加工するにも使えるからと。流石に護身用には使えないようだけれど、細かい作業をするには便利だろう。
「俺はもう一本あるからねえ。ま、生きてるうちの形見分けだと思ってもらっておいてよ」
そう言って、じーちゃんは笑う。
「縁起でもないよ、じーちゃん」
顔をしかめてしまっているのが、自分でもわかった。あんな話を聞いてしまったあとだから尚更。じーちゃんはからからと笑った。
「いやいや、生きてる間に分けるほうが本当は良いんだよ。別にあと一年しか生きられなくても、二十年生きられるとしてもな。ほら、よく話であるだろ、遺産相続で揉めるってやつ。自分が死んでからそんなことで身内がぎすぎすするのを望んでる人はいないと思うんだよ。だけど、生きてる間に自分が死んだ後のことを考えたい人も、そんなにはいない。……本当は、死ぬ前に、自分が元気なうちに、自分の大事にしてたものは、自分がもらってほしい相手に分けたり、あげることを約束しておくほうがいいと思わないか?」
「それは、まぁ」
わかるけど。だけど、自分が死んだ後のことを考えたい人が少ないだろうことと同じく、僕は僕の大切な人たちが死んだ後のことも、あまり考えたくはなかった。だから、多分僕の表情は、重いはずだ。自分で見ることはできないけれども。
「だから、そんな顔するなよ。これは俺がお前にもらってほしいと思ったから、あげるんだからさ」
ああ、やっぱり。じーちゃんの言う「そんな顔」は、多分僕が予想しているのと、同じ顔。
「あと俺が三十年生きられるとしても、今俺はサザにこのナイフをあげるよ。それでも、そんな顔するのか?」
「…………しない」
「じゃ、どんな顔をする?」
じーちゃんが笑う。楽しそうに。
どんな顔をするだろう。そう考えた。いや、考えるまでもなく、わかった。
笑うだろうな、と。嬉しそうに。
幼い頃、目の前で器用にいろいろなものを作ってくれた、じーちゃんのナイフ。小さな頃の僕が憧れた、旅の道具。古ぼけたそれは、じーちゃんと共に旅をした長い長い時間を刻んでいた。
喜ぶだろうな、間違いなく。そうだよな、小さい頃の僕。
「……ありがとう、大事に使うよ」
「そうしてくれ。ちゃんと手入れすればまだまだ使えるからねえ。それこそ、サザが俺と同じぐらい歳を取るまでな」
そう言って、じーちゃんは笑った。多分、僕も笑えたと思う。
「歳の取り具合だけだったら、あと十年ぐらいで追いつくよ」
「あはは、確かにねえ」
笑うじーちゃんは、何処からどう見てもせいぜい二十代の後半ぐらいにしか見えない。それでも、八十五年分の命を使って、七十五年の時間を積み重ねてきている。今の僕にはわかるはずのない時間がそこにある。
僕はもらったナイフを、荷物の取り出しやすい位置に詰めた。薬壜ひとつと同じぐらいの重さしかないはずなのに、リュックがずしりと重くなった気がした。
作品名:閉じられた世界の片隅から(3) 作家名:なつきすい