閉じられた世界の片隅から(3)
「……ごめん、気持ち悪いよな。忘れてって言っても、無理かな………」
「あんたさー……なんでそんなに好き好んで苦労を背負い込もうとするわけ?」
僕の言葉と、フィズの言葉は、ほぼ同時だった。
「苦しかったんじゃないの? 前も言ったでしょ。私があんたのことを気持ち悪いとか思ったりするわけないって」
フィズが僕の頭に触れる。華奢な手。
「私の一番の宝物は、サザよ。それは、間違いないしずっと変わらない。家族として、弟として、友達として、人間として、サザがなにより大切なの。多分、私よりも。だけど、あんたのことを男として好きかどうかは……まだわからない。わからないよ」
わからない。そう、繰り返す。
「なんというか……あんたのことは大好きなんだけど、だからわからない。どういう好きなのか」
すっと手が離れる。深刻そうな表情が和らいで、そして、にやりと笑った。
「いっそのこと私もあんたのこと忘れたら、わかるかもね?」
なんだか、がくりと肩の力が抜けた。まったくもう、この人は、そういう不穏当なことばかり言う。
でもそんなフィズを、僕はどうしようもなく愛しく思う。
「やめてよ。全部忘れられたら、家族としても好きでいてもらえる自信ないんだから」
「意外と一目で恋に落ちるかもよ?」
「まさかぁ」
また、空気が元通りに戻っていく。
そう、こうして、また僕らは何時も通りに戻っていく。それで、構わない。
「もう少しだけ、待ってね」
「何が?」
「返事」
短く答える。少しだけ、照れくさそうに。
「急がなくてもいいよ。僕たちはとりあえず離れ離れにはならないで済むんだし、フィズが今のままがいいんだったら、それでも構わないし」
「ん、でもそうやってうだうだしている間に、もしあんたが他の女の子と付き合い始めたりなんかしたら、それはそれで嫌なんだよね」
「なにそれ?」
フィズは小さく華奢な首を捻る。
「キープ……じゃあ、あまりにも人聞きが悪いか。なんだろう、なんていえば良いのかよくわからないけど……」
「……………」
なにやらいまひとつ人聞きの良くない単語が聞こえた気がしてとりあえず聞かなかったことにする。口にした本人もその言葉の人聞きの悪さについては自覚があるようだし。
「サザとそういう関係になりたいのかどうなのかが自分でもはっきりしないんだけど、でも他の子に取られるのは嫌だなぁ……。さすがに、勝手極まりないのはわかってるけどさ」
そんな勝手なことを言う、頬は少しだけ赤い。
勝手だ。勝手だけど。だけど多分、それに唯々諾々と従う僕がいる。
たとえフィズに、異性としては見られないという答えをもらったとしても、僕は他の女の子と付き合ったりはしないだろう。フィズの望む通りに。
「まったくもう」
その言葉を向けるべきは、フィズか、それとも僕か。
「そんなこと言われたら期待するよ」
半分本気で、半分冗談。だけどそれに対する返事は、僕の言葉以上に本気か冗談かわからない。
「うーん、いっそのこと、先にサザに押し倒されちゃったりなんかしたら、なし崩し的に踏ん切りがつくかもしれないねえ」
「フィズ!」
多分冗談だとは思うのだけど、時々フィズは真顔でシャレにならないことを言う。むしろ、洒落にならない冗談であればあるほど、真顔で言うような気がするのは気のせいだろうか。
「冗談だよ、半分は」
「半分って」
「あはは。それも可能性のひとつとして検討してみただけだよ。多分私拒否しないし」
「だーかーらー、そういうことはしないって言ってるだろ」
胸の痛みは取れた。代わりに若干頭が痛い。今一瞬先ほどのイスクさんの言葉が頭をよぎったけれど、僕にはとてもとてもできそうもない。むしろ、できないのがわかっててからかったんだろう。ああもう、やっぱりあの人はフィズの親友だ、間違いなく。
「わかってるよ。サザのそういうところ、好きだし」
どくん、と大きく心臓が動いた、気がした。やっぱりフィズはずるい。なんでこの流れで、このタイミングで、そういうことを口にして、そんな風に笑ってみせるんだろう。この世にあるどんな美しいものよりも、僕を惹きつける、その綺麗な笑顔で。
たとえどういう結論になろうとも、どの道僕は一生フィズには勝てない。そんな気がする。こんなもの、好きになったほうが負けに決まってるんだ、きっと。
「だってサザがもっとずるかったら、私があんたを他の子に取られたくないって言った時点で、『僕の物にならなきゃ他に彼女を作るよ』ぐらいに言えばいいんだもん。多分正攻法より簡単に私を落とせるのに」
「……まったくもう」
それ以上何も言葉を返せず、返さず。僕は片付けに戻った。フィズは一瞬つまらなさそうな顔をしたけれども、同じく作業に戻る。黙々と、黙々と。だけど多分、真っ赤になっただろう顔は、見られてしまったと思う。
直ぐに、どちらともなくなんでもない話題を振って、いつも通りの空気に戻るのだろう。だけど、それまでの間、ほんの少し、心臓が早鐘のように打ったままの時間を、僕は過ごす。どうして、こんなに愛しく思うんだろう。どうしてこんなに、爪の先ほども傷つけたくなんかしたくないと願うんだろう。自問すれど答えは出ない。でも、それでも構わないような気もした。
やがて診療所の片付けがだいたい終わってしまい、夕刻を回る頃には、僕らはいつものように、何気ないおしゃべりを続けていた。
離れを出て、見上げた空は、時刻のわりにはまだ明るかった。それでも赤みの差した陽の光が、もう早い時間ではないことを告げていた。
静かな、静か過ぎるぐらいの夏の夕刻。蝉の声だけが響く。それと、僕らの足音。街にはもう、誰も居ない。僕たちのほかには、誰も。
こんなにもはっきりと夏の虫の声を聞いたのは、初めてかもしれなかった。いつもなら、街中のどこにいても、賑やかで。夏となれば特に、短い夏を楽しみきるために夜通しあちらこちらで騒ぎが繰り広げられているから尚更。これが長い冬であれば、誰もが直ぐに飽きてしまうから、時には雪の降り積もる音が聞こえるほどに静かな夜もあるけれど。思わず立ち止まって、耳を澄ました。
「静かだね」
「うん」
加えて聞こえるのは、僕とフィズの声。それから、母屋のほうから聞こえる、スーとレミゥちゃんの声。
「サザ」
「何?」
振り返る、口が動きかかって、止まった。
「……ん、なんでもない」
「そう?」
僕は聞かない。フィズが言いたくないことなら、そのままでいいと思った。
その夜も、みんなで晩御飯を作った。今日を入れてもあと残り二回しかない、この場所での、家族の夕食。
作品名:閉じられた世界の片隅から(3) 作家名:なつきすい