閉じられた世界の片隅から(2)
もう一歩。ここまで来たら銃弾よりもナイフのほうが余程効果的かもしれない距離。
扱えるかどうかはともかく、一応ナイフがあることを、足に伝わる鞘の感触で確認する。
これだけの大仕掛けをしてでも手に入れようとしたのだ。ここでフィズを盾にすることはないだろう。フィズに対して見出している価値が軍事上としてのものであるとするなら、尚更。金で買えない希少価値をあっさり捨ててしまうとは思えない。だから、多少詰め寄っても、フィズに危険が及ぶことはない。
問題はスーだ。うっかり僕が刺されたり撃たれたりしようものなら、スーを巻き添えにしてしまう。かといってスーを床に寝せてしまっては、連れ去られてしまう危険性が残る。
でも、ここでフィズが連れ去られるのを黙って見過ごせば、もう二度と、フィズには会えない気がした。
「絶対に、嫌だ」
考えろ。考えろ。どうすればいい。どうすれば、フィズを行かせないで済む。
「それでも」
フィズが呟く。静かな声で。
「私は、もう見たくない。私のせいで、誰かが痛い思いや辛い思いをするところなんてもう見たくないよ」
その声は、泣いてはいなかった。
「だから、さよなら」
笑っていた。柘榴石と猫睛石の瞳の縁に涙を浮かべて。それは、あまりにも綺麗で。
こんな笑顔は見たくなかった。フィズの色んな表情が見てみたいと思ったことを、僕は一部撤回する。
フィズの、辛い顔は見たくない。
「フィズ!」
僕は一歩踏み出した。その瞬間、足が止まった。動かなかった。足だけじゃない。手も。
「ごめんね、サザ」
フィズが僕に向けてすっと手を翳した瞬間、まるで石になったかのように、体が言うことを利かなくなった。
どうして。ここは、魔法の発動が封じられる建物のはずなのに。
第一、魔法が使えるなら、今此処でシフト少将から僕とスーを連れてでも安全に逃げられるはずなのに。
これらの疑問は、すべて言葉にならなかった。
「私のこと、忘れてもいいし、恨んでもいいから………お願いだから、元気でいてね。幸せになってね」
涙のせいか、金色の左目に、うっすらと赤い色が混ざっていた。
声帯も止められてしまって、呼びかけたいのに、叫びだしたいのに。
フィズの名前を、行かないでほしいということを、一緒にいたいということを、こんなにも声にしたいのに。
どうして。そんなに自分の事を簡単に諦めてしまうんだ。八年前の事故の時も、この間の高熱のときも。
そんなの優しさでも思いやりでもない。そのことに、僕は気付いてしまった。
フィズのことを、僕やイスクさんや、家族みんなが、街の人が、どれだけ大切に思ってるかをわかってて、そんなことをしてるんだったら、それはみんなに対する裏切りだ。あのときの、イスクさんの平手打ちの意味を、まだフィズはわかっていないのか。
叫びたい、伝えたい。ただひとつ自由になる目から、涙が零れた。
どれだけフィズのすべてが大切で、必要で、愛しく思っているのか、わかれよ。
だけど、それを伝えるための言葉は、フィズによって封じられたままで。
最後に絵画のように綺麗な笑顔をひとつ残して、フィズが僕に背を向けた。行かないでほしいと、どんなに心の中で叫んでも、フィズの耳には届かない。
僕が欲しいのは、こんな絵みたいな、止まった笑顔じゃない。くるくると変わり、十秒と同じ表情をしていない、その都度変化する笑顔。
なのに。
振り向いてはくれなかった。僕の中であの止まった笑顔のままで、フィズが固定化されていく。嫌だ。もっと色んな、一度として同じにならない、その笑顔を見せてほしかった。
だけど、笑顔どころか。
以前より少し痩せたフィズの後姿すら、緩やかなカーブを描く道の向こうに飲み込まれて、見えなくなった。
追いかけたかった。叫びだしたかった。だけど僕は凍りついたように動けなかった。なにも、できなかった。
何分経っただろうか。
今フィズは何処に居るだろう。まだこの建物の中にいるだろうか。
頭の先から少しずつ拘束が解けてきてはいるけれど、まだ声しか出ない。
「フィズーーーーーー!!!!!」
出せる限りの大声で、フィズの名前を呼ぶ。届いているかどうかは、わからない。
「フィズの馬鹿ぁぁぁあ!!!なんでいっつもそうなんだよぉぉぉお!!!!!」
それでも、叫ばないではいられなかった。
勝手に先回りして、勝手に下手な気の使い方して。
悲しい思いをするよりも、忘れるほうが嫌だった。
苦労をするよりも、頼ってもらえないことのほうが悲しかった。
痛い思いをするよりも、二度と会えないほうが、ずっと辛い。
声が嗄れるかと思うぐらい叫んでも応えはなかった。ただ、僕の声が反響しているだけだった。
叫んで、叫んで、もう叫び声が出なくなるまで叫びつくした頃、やっと、頭が回り始めた。
こんなことをしている場合じゃない。
僕がすべきことはなんだ。
僕ができることはなんだ。
なんとか、肩まで自由に動くようにはなった。肘も指も動かないけれど。
腕だけを動かし、荷物の袋を床にひっくり返す。中には、鞘に入ったナイフと、爆弾の残り。回路がいくつかと、動力用の魔法鉱石もいくつか。回路はすべて、この中でも使えるように契約代替方式ではなく、直接物質に作用できるもの。大した出力のものはない。
何か使えるもの。床に散らばった荷物をひとつひとつ確認していると、背中でスーが小さく身じろぎするのがわかった。
「スー、起きて。スー!」
掠れかけた呼びかけると、小さく「うー……」と声を上げた。起きているのか眠っているのか、この位置からは顔が見えないのでわからない。
「頼むよ、スー、起きて!」
何度も何度も呼びかける。そのうち、鬱陶しそうな声を上げて、「なに……もう朝………」などという寝惚けた様子の声がした。
「スゥファ!」
珍しく名前で呼ばれた為か、少し驚いたような声が聞こえた。そして目が覚めて状況を確認したのか、半ばパニックに陥りかけている気配が背中から伝わってきた。
「落ち着いてスー。もう大丈夫だから。もうあの怖い人はいないよ」
「え? え? どういうこと? なんでサザが?」
「助けに来たんだよ。落ち着いて、深呼吸して」
そう言うと、珍しく素直にスーは大きく息を吸った。同じくらい大きく吐く。それを何度か繰り返すうちに、落ち着いてきたのだろう。
「なんであんたなのよ。どうせならフィズラクかおばーちゃんに助けに来て欲しかったなー。ていうかなんであんたそんなに止まってるのよ、たらたらしてないでさっさと帰るわよ」
いつも通りの憎まれ口を利いて、僕は正直安心した。肘も動く。
「ごめん、スー。ちょっと先に帰っていて欲しいんだ」
「え?」
自由になった肘をゆっくり解いて、なるべく衝撃がないようにスーを床に降ろした。
「ちょっとそこに落ちてるの、取ってくれる? あとそれからそこに落ちてる石も」
僕は肘を動かして、床に転がっている回路のひとつを示した。
「これ?」
「そうそれ。その穴に石を嵌めて」
「そんなこと自分でやりなさいよ」
「頼むよ。フィズに魔法で動けなくされちゃって、指が使えないんだ」
作品名:閉じられた世界の片隅から(2) 作家名:なつきすい