閉じられた世界の片隅から(2)
うちにも羽目を外して遊んでしまった子どもがひとり。夕飯を食べるために母屋に行くと、珍しくスーが多少か落ち込んだ顔つきで、居間で箒をかけていた。友達を連れてきて家でかくれんぼをしているうちにだんだん歯止めが利かなくなってしまい、相手を出し抜こうと食器棚によじ登ったらしい。
見た目ではわかりづらいが、この食器棚は二つの棚が上下に積み重ねられている。そのうち上のほうのひとつが、スーの体重でバランスを崩し、落ちてしまったそうだ。当然、中の食器は粉々。棚もろとも落ちたスーは子どもゆえのバランス感覚の良さのためか、幸いにも軽い打撲で済んだもののパニックを起こしてしまって大泣きしてしまった。
ばーちゃんはまずは無事を喜んだものの、さすがに今回ばかりはお咎めなしというわけにもいかず、スーは飛び散った食器の破片の掃除を言い付けられた。あまりの物音とスーの泣き声に驚いて飛び出してきた友達も、スーにつられて泣き出してしまい、もう既に帰宅したらしい。
普段だったら僕の顔を見るなり憎まれ口を叩いてくるはずの妹が神妙な様子で黙り込んでいるのをみると、少々かわいそうな気がした。自業自得ではあるし、小さな子どもはこういった類の失敗を積み重ねて学習していくのだと思うので、手助けはしないけれど。フィズも同じ思いであるのか、一度スーの頭を軽く撫でた後は、黙って見守っていた。
ともかく、スーがだめにしてしまった食器棚の中には、うちで使うスープ皿が全部入っていたらしい。折悪しくばーちゃんが用意していた今日の夕食のメインディッシュは具材たっぷりのスープだった。台所のほうから良い匂いが漂ってくる。
余計なものは買ってこないように、と釘を刺された上で、僕らは食器を買いに行くことになった。とりあえず直ぐに必要なものは、割ってしまうことや来客を考えて、七人分のスープ皿と、コップを三つ。本当なら僕一人で十分に持てる量だったのだけれど、なんとなく、特に理由なんてなく、「フィズも行く?」と声を掛けてみた。ばーちゃんもフィズラクがついていれば安心だから、という理由で一緒に行くように促した。なんとも情けない話ではあるが、つい数ヶ月前にひとりで待っていて強盗に襲われたということもあったばかりで、僕は反論する言葉と根拠を持たない。腕立て伏せの回数を増やしてみようかとも思う。
フィズは薄手のコートと春秋用のやはり薄手の手袋を着けて部屋から出てきた。僕も春物の上着は着ているが、手袋はしていない。フィズの着ているコートは茶色で、どちらかというと春よりも秋の印象が強い。帽子だけは相変わらずこだわりを持って、今日はフィズの長い黒い髪に良く似合う、白地に硝子の飾りのついた大き目の帽子を被っていたが、着飾る、ということに、基本的にフィズは無頓着だ。僕が知る限り、化粧をしていた記憶も、ジェンシオノ氏と交際していた一時期のみのような気がする。
だからこそ、これだけ整った端正な顔立ちで、尖った両耳、柘榴石の右目と猫睛石の左目というこの街でもそれなりに目立つ外見的特徴を持ちながらも、フィズの容貌が街を歩いていて人目を引くことはあまりないのだろう。勿論、一度会ったら二度と忘れられない姿ではあるのだけれど。ただし、フィズが未だかつてナンパをされたことがないのは、確実に容姿以外の部分に原因があるに違いない。
「さ、行こうか」
フィズは僕よりも一歩先に、すたすたと歩き出した。慌てて歩調を速めて、僕はフィズの隣に立つ。春とはいえ、夕方はまだまだ寒い。手袋をしてきたほうが良かったかもしれない。この時期はまだ、夜や早朝には雪が降ることも稀にある。けれど、冬の夜ほど空気が透き通ってはいない。土の匂いや、僅かに残る陽の気配や、少し生温かいような、なんというか、生命力のようなものが、空気に満ちているような感覚がある。淀んでいるわけではないけれど、澄んでいるわけでもない。流動している、そんな感じがするような、春の夕方の空気。春は、生き物の息吹が空気にまで漂っている気がする。たった一月ほどしかない季節だけれど、僕はこの時期が好きだ。
街を歩く人の足取りも、心なしか冬よりも活気がある。雪ではなく、土を踏みしめる足音が聞こえる。出店も、冬よりも多く、フィズはあちらこちらをきょろきょろと忙しく見回しながら、大通を南へ進んでいた。
「あー、あれ、おいしそうだなー……」
ふとフィズがその目を留めたのは、棒状に焼き上げた細長いケーキだった。蜂蜜とバターの甘い香りが、鼻腔を刺激する。
「食べてかない?」
「帰ったら夕飯だろ?」
「あー、そうだった」
残念、とは言いながら、それでも視線は出店から離れない。
「……………」
「……………」
「……………」
「……………」
「……………」
「……………半分こしようか」
根負け。途端、フィズの宝石のような両目がキラキラと輝いた。
「ん、そうしよう」
直ぐにフィズは出店にすっ飛んで行き、ケーキをひとつ買った。半分こ、と言ったはずなのに半分に割らずにフィズはケーキにかぶり付いた。
「美味しいーっ」
満面の笑みでケーキを一口一口味わっていく。あまりにも幸せそうなその笑顔は小さな子どものようで、僕より三つも年上には見えないほどだ。この間、硝子の温室で見せたあの呼吸が止まるかと思うような綺麗な笑顔とはまた違う。あれもこれもすべてフィズで、どちらも魅力的であるのだけれど、一体フィズはどれだけ多様な表情を持っているのだろう。できるのなら、もっと色々な顔を見せてほしいと願う。できる限り、長く共にいて。
その笑顔をもっと長く見ていたい気はしたけれど、ケーキはなかなかのボリュームで、丸ごと食べてしまうと夕食に差し支える。フィズは自分は料理などまったくできない割りに結構味にうるさいけれど、特段食べるほうではない。半分ぐらいのところで止めようとしたのとほぼ同時に、
「はい。あとはサザの分ね」
と、残りのケーキが差し出された。甘い匂い。それを受け取り、噛り付こうとして、ふと。
手が、口が止まる。わかっている。意識し過ぎ。少なくともフィズはまったく気にしていないだろう。馬鹿みたいだ。意識がそちらに向いてしまうと、顔が熱くなるのを止められない。ああ、さっきの子どもの件といい、此処のところの僕は、何処かが壊れかけているのではなかろうか。
フィズが高熱を出して、僕らがフィズに関する記憶を失い、そして創造の魔人ファルエラさんとの邂逅。あの時、僕は完全にフィズのことを忘れて、十三年近くを姉弟として過ごしたことすらも忘れて、その結果、僕自身が恐らくは敢えて気付かないようにしてきたことに、気付いた。それからだ。
気付かないようにしておけば、なんでもないこと、気にも留めないかもしれない、あるいはなんでもないことだと思い込もうとしていたこと。それが次々と意識に上ってきてしまう。けれど、だからといって何ができるわけでもないし、何をするでもない。
動揺を悟られないように、僕はケーキに齧り付いた。元々甘めの生地に蜂蜜で更に甘み付けしたケーキは舌がとろけ落ちそうなほどに甘ったるい。強烈に甘いその味は高級さや上品さとは縁がないけれども、癖になるなにかがあった。
作品名:閉じられた世界の片隅から(2) 作家名:なつきすい