閉じられた世界の片隅から(2)
どれぐらい走っただろう。イスクさんの見取図通りであるのなら、この長い廊下は建物の中心に向かって渦巻きのように伸びているはずだ。実際、走っていても真っ直ぐ先を見通すことができない。ぐるぐると回っている感覚に、自分が何処にいるのかがわからなくなる。一本道で方角は間違いようもないけれど、それでも、自分の居場所とあとどれぐらい走らなければならないのかがわからないのは怖かった。年季を経て罅割れや雨漏りの跡のような染みの残る灰色の冷たい壁が延々と続く。変わらない景色に、時間の感覚までおかしくなりそうだった。まだ三分ぐらいしか経っていないような気もするし、もう一時間も過ぎたような気もする。まだスーの姿は見えない。
走っても走っても、僕以外の気配はない。もしかしてずっと同じ場所を走っているんじゃないか、などという想像が頭を過ぎった時、僕は歩みを止めた。そこは、突き当たりで、壁には鍵のある扉がついていた。
その鍵は、中に人を閉じ込めて置くための鍵だった。閉じこもるための鍵とは違い、外側からは容易に施錠できる反面、内側からは開けることができない。ドアノブを捻ってみる。鍵は掛かっている。それは、中に何かが閉じ込められていることを意味していた。鍵を捻ってみる。拍子抜けするほどあっさりとそれは開いた。鍵の向きの違いだけで、家のトイレの鍵となんら変わりなかった。
ドアノブに手をかけようとして、流石に躊躇った。あまりにもあっさり過ぎている気がする。この奥に何か大変なものが用意されているのではないだろうか。閉じ込められているはそれこそ本物の実験動物で、うっかり野放しにしようものなら街の一つや二つ簡単に破壊するほどのとんでもない危険な生物兵器であったりするのではないか。それか、一歩足を踏み入れた瞬間、周りに銃を構えた軍人たちが潜んでいて……とか、次々恐ろしい想像が浮かんで来る。
それを振り払い、ドアノブを捻った。ほんの少しだけ、扉を開けてその隙間から中の様子を窺う。僕は飛び出さなかった自分を褒めてやろうかと思った。がらんとした部屋の中、たったひとりスーがソファの上に寝かされていた。周りに誰もいないかどうかを確認しつつ、ドアを開けて行く。誰もいない。落とし穴や壁から突き出して来る刃物のような、わかりやすい罠が仕掛けられている様子もなかった。
「スー」
大声で名前を呼びそうになるのを抑えて、僕は呼びかけた。返事はないが、ちゃんと呼吸はしている。ほっとして、思わず体から力が抜けそうになるけれど、まだ終わっていないことを思い出し、膝をつくことはなかった。
少し観察した限り、スーは薬で眠らされているようだった。無理矢理叩き起こしても起きないかもしれないが、時間が経って薬が抜ければ目を覚ますだろう。薬の種類によっては十分ぐらいで起きるかもしれないし、二、三日はこのままかもしれない。スーの確保に成功したことを示すため、ドアを全開にして、爆弾をいくつか設置した。爆発力は大したことないが、音と煙だけは実戦で使われているよりも派手な仕様だ。レミゥちゃんも見たことがあり、大きな舞台では演出用に使われることもあるらしい。円形の廊下に響き渡れば、それを合図にしてじーちゃんが外壁を壊し始める手筈だ。ひとつだけ手元に残したのは、万一取り囲まれたときの目くらましに使えないかと考えたからだ。
目を覚まさないスーを背中に背負って、僕はまた走り始めた。小さな子どもとはいえ、その体重を抱えて走るのは楽ではない。どうしても速度は落ちる。一刻も早く戻りたいのに。走れ走れ。外にさえ出られれば、フィズとじーちゃんがいる。じーちゃんが首尾良く結界構造を壊せれば、フィズが助けに来てくれるはず。とにかく、そこまで、少しでも早くスーを連れていかなければ。
どれぐらいの距離があるのかは往路でわかった。それでも、スーを背負っている分遅い。焦っているのが自分でわかった。奥の方から轟音が響く。ということは走り出してからもう五分は経ったことになる。
僕は走って、走って、そして、足が止まった。目を疑った。動けなかった。
そこにいたのはシフト少将だった。足音に気づいてはいた。隠れるところもあった。それでも、動けなかった。スーの重さのせいではなかった。
シフト少将の隣に、フィズがいたからだった。
僕は隠れることも忘れて、その場に立ち竦んだ。
「呆気無かったな、スラム街のシャズル一家も、この程度か」
シフト少将の顔に表情はない。言葉は、明らかに嘲っているのに。
「お前たちだけならまだしもまさかノアウォーン氏が参謀に居てこの程度だとは。つくづく、歳は取りたくないものだ」
「じーちゃんが?」
「知らないのか。ノアウォーン氏は我が軍で昔天才と鳴らした若手トップの参謀だったものだ。尤も、五十年も前に突然退役して、それから消息が途絶えていたようだが」
知らなかった。知るわけがない。五十年前のことなんて、僕らから見たら遠い昔。じーちゃんが、元軍人。
しかしそんなことは、あとで本人に聞けば良い。聞かなくても良いぐらいだ。それよりも。
なんで、シフト少将と、フィズが此処に居る。
そう聞きたいのに、言葉が出なかった。
「……私たちの負けだよ、サザ」
フィズが力なく呟いた。目を伏せて、肩を落として、まるで魂が抜けてしまったみたいに。
「誰にも会わなかったでしょ?……私たちが無理やりスゥファを奪還しようとすることは読まれてた。だからこの建物ごと、スゥファと、それを助けに来る誰かの最低でもふたりを人質に取るつもりだったのよ」
フィズの言葉を、なんとか理解しようと努める。作戦を読まれていた。誰かが隙をついて中に入るのは織り込み済み、建物ごと人質。
「見ての通りこの基地は老朽化が著しくてな」
シフト少将が口を開いた。
「取り壊しが決まっている。その責任者は、私だ。どの業者を使おうと、どの解体法を使おうと、それらはすべて私に一任されている」
取り壊し。解体。その言葉に、まさか、と思った。
「僕らを内部におびき寄せてから、この建物を爆破でもしようとしたんですか」
「彼女が自分から来てくれるというのであれば、その必要はない」
完全に、嵌められた。
たったひとりの人質であれば、しかも身に危険が及ばないと判断すれば、僕らは身代わりを差し出すよりも奪還の道を選ぶだろう。だから、人質を増やし、直ぐにでも命の危険に晒せるように。途中で気付いても、結局スーが居る状態で建物を破壊されて終わったかもしれない。
そして、フィズが自ら来てくれれば、との言葉に引っかかった。まさか、まさか。
「あなたの本当の狙いは、レミゥちゃんじゃなくて、フィズラクだったんですね」
「!」
フィズが顔を上げた。その瞳を驚きに見開いて。しかしフィズは一瞬シフト少将の顔を見て、それから、また顔を伏せた。
僕は背筋に冷たいものが走るのを感じた。初めて、シフト少将の表情が動いた、気がした。それは僕らに比べればごく僅かな変化だったけれど。
少将は、笑っていた。
「それだけ利口なら、何故この程度の作戦しか思いつけないのか。やはり、経験不足か」
否定しない。そうだとすると、もっと恐ろしい事実に気付いてしまう。
作品名:閉じられた世界の片隅から(2) 作家名:なつきすい