閉じられた世界の片隅から(2)
家をこっそり出られればいいのだけれど、軍人の目こぼしを期待するのはそれは楽観的とかいう問題ですらない。相手の失敗を誘ってそれに付込むのは戦略だけれど、相手のミスを期待するのは無策でしかない。
普通の服装で出て何処かで着替えればいいのかもしれないけれど、そこから何時間も僕が出てこないというのも怪しすぎる。
「あたしに考えがあるんだが」
それまでずっと沈黙していたばーちゃんが、口を開いた。
「情報は欲しいが、イスクたちに迷惑は掛けられない。基本的には、サザの考えた方向でいいと思う」
それで、だ。そうばーちゃんは言って、口元だけで笑った。
「この作戦はサザにやってもらう。あたしの知り合いがやってる店に入って、そこで着替えさせてもらいな。あそこなら何時間か居てもおかしくない。店に入って変装して出て、用事が済んだらまた店に戻って、元の格好に戻って帰ってくる。多分これが一番無難だ。店の子に頼むほうがより目にはつきにくいが、お前が実際に行かないと想定外の出来事が起きたときに対処できないし、秘密を暴露されないとも限らない」
「うん」
その考えは正しい。できる限り、人を巻き込みたくない。人数が増えれば増えるほど、秘密裏の作戦はうまくいかなくなる。
「店のほうは大丈夫だ。それにあの店は、スゥファの母親が生前働いていたところだからね。店主に事情を話せば、間違いなく助けてくれる。勿論、軍が関わっているなんて話はしなくていい。この作戦にただひとつ妙なところがあるとすれば、この非常時にそんなところに行ってる場合かってことぐらいか」
そんなところってどこだろう。そう思いつつ、僕は頷いた。長時間居座っても奇妙じゃない場所で着替えさせてもらえるなら、最高じゃないか。
「危なくないのか、俺がやろうか?」
じーちゃんがそういうと、ばーちゃんは
「タクラハだと少々図体が大きい。これはサザが適任だよ」と答えた。じーちゃんは僕よりは大きいが、特別大柄なわけではない。長身の部類ではあるけれど、やや長身、といったところだろう。顔を覚えられているかどうかという意味では僕のほうがいいと思っているが、特に身長が理由で一目を引くことはないと思う。
それでも。
「やってくれるね、サザ」
「当然」
その瞬間、ばーちゃんの表情がぐっと引き締まった気がした。現状を打開するにはまだまだ足りないが、少しは糸口が見えたかもしれないという希望が、鉛のような空気を吹き飛ばしたように思えた。
ばーちゃんが立ち上がって、号令を掛けるように、はっきりとした口調で言った。
「じゃあフィズラクはイスクに手紙を。サザには夕方に出かけてもらう。それまでは晩御飯の下ごしらえを頼む。あたしとタクラハは作戦立案を続行」
「あの」
予想外の小さな声がして、食卓を離れようとしていた僕たちはいっせいにレミゥちゃんの方を向いた。
「私は……」
「レミゥは休んでいるといい。疲れただろう」
「でも」
レミゥちゃんはじっと、真剣な目でばーちゃんの顔を見た。
「私のせいでスーちゃんが……」
正直、僕は今の今までレミゥちゃんのことを考えなかったことを悔いた。スーの奪還にばかり気を取られて、この子がどれだけショックを受けているかを考えていなかった。
旅芸人の娘だと話してくれたときに、少しだけ出てきた両親の話は明るく優しいものだった。だとすれば、軍部がこの子を最初に捕らえたときの状況は、両親が金のために娘を売り飛ばしただとか、そういうものではなかったはずだ。もしかすれば、彼女を庇って両親が傷つくところを目の当たりにしたのかもしれない。
こんな小さな子が、一生懸命耐えているんだ。
僕はレミゥちゃんの前でしゃがんで、フィズがよく僕にしてくれたように、レミゥちゃんの頭を撫でた。
「じゃあ、僕と一緒に晩御飯のお手伝いをしてくれる?」
言うと、少しだけ、その表情が明るくなったような気がした。
「うん」
その無邪気な表情を見て、こんな子どもを実験動物扱いする彼らに対して例えようのない怒りが沸いてきた。
絶対にフィズもレミゥちゃんも渡さない。そして、スーは奪い返す。必ず。
決意をできるだけ穏やかな笑顔に換えて、僕たちは台所へと向かった。
そして数時間後。
僕はいまだかつてないほどに場違いな場所にいた。
鼻を突く匂いは香水や白粉のものだけではないだろう。人間の汗の匂いだとか、酒臭さだとか、なんのものだかあんまり考えたくない生臭さだとか、雑多な匂いが溢れかえっていて、頭が痛くなりそうだった。
たくさんの人の声が聞こえる。女の人の声も、男の声も。笑い声も、泣き声も、嬌声も、……その、喘ぎ声も。
いかにも、家族の目を盗んで抜け出してきた風を装って、たどり着いたのは、ばーちゃんの友人が営んでいるという娼館だった。店に入り、奥に案内してもらう途中でばーちゃんの名前を出し、こっそりと主人に取り次いでもらう。案内役の女性は、職業柄密談などに慣れているのか、ごくごく自然に、恐らく周りから見られていたとしても、普通に客を部屋に通しているとしか見えないように、僕を主人の部屋へ連れて行ってくれた。ただ、普通に客を通すときがどんな感じなのかは客として来たことがないのでわからない。
娼館の主人は、いかにもマダムという形容の似合う、ばーちゃんよりかはいくらか若い女性だった。
スーが攫われたこと、スーを助けるためにイスクさんに協力を仰ぎたいが、彼女を巻き込むわけにはいかない為に此処で着替えをする場所を貸して欲しい旨を告げると、二つ返事で了解してくれた。マダムはスーの母親のことをちゃんと覚えていて、「あの子の娘なら、随分可愛くなったでしょうね。無事に助かってもらわないと困りますわ。そのうち、うちで働いてもらうかもしれませんもの」と冗談めかして笑っていた。なんとなく、その笑顔は心配の裏返しのような気がした。
そして今、僕は女性たちの控え室というあまりにも場違いな場所で、あまりにもその場に溶け込んだ姿にされていた。
「きゃー、可愛いっ」
「ホント、このままでおうちに帰してあげたいわ」
「君フィズラクのところの弟君でしょ? フィズラクも呼んで見せてあげようよ!」
僕は三人ほどの女の人に取り囲まれ、見事に着せ替え人形と化していた。着替えの場所の提供は頼んだが、こんなことまで頼んだ覚えはなかった。でも考えてみれば出かける際に着替えを持たされなかったので、ばーちゃんはここまで予想していたのかもしれない。じーちゃんじゃ駄目だという理由がやっとわかった。じーちゃんだと多分、ごつい。
鏡に映っていたのは、つぎはぎのあるエプロンドレスに、灰色のロングヘアを上で小さく二つに結ってスカーフを巻いた、どこからどうみても奉公人風の少女だった。
「ねえ、口紅もうちょっと塗っても良い?」
「だめよ、お店に出るわけじゃないんだから、あんまり派手だと目立っちゃう」
「確かにこれ以上目とか描いちゃうと、こんなお洒落した下働きの子いないわね」
「…………」
作品名:閉じられた世界の片隅から(2) 作家名:なつきすい