閉じられた世界の片隅から(2)
診療所と住居を隔てるドアの開く音がした。
「フィズラク、サザ、大変なことになった!」
飛び込んできたのは、じーちゃんだった。全身で呼吸をしているかのように息は荒い。表情には誰の目から見てもわかるほどの焦りが浮かんでいる。
直感する。昨日の連中の件だろう。他に、いつもとらえどころがなくマイペースなじーちゃんが、これだけ必死の様子で言う大変なことの心当たりなどなかった。
「またあいつらが来たの!?」
フィズが言うと、じーちゃんは首を斜めに振る。
「半分当たりで半分は間違いだ」
そして僕らの前に、一枚の立派な紙を突きつけてきた。その文章を目で追っているうちに、全身から血の気が引いた。ふと隣を見ると、フィズも同じ顔をしていた。フィズの手がわなわなと震えているその感覚で、僕はまだフィズの手を握っていたことを思い出す。視覚以外のすべての感覚が消失したかと思うぐらい、一瞬頭も五感も完全に停止した。フィズの手を握る手だけは、かろうじて現実に留まっていたようだけれど。
艶やかな、見るからに高級そうな紙。この街ではほとんどお目にかからない代物だ。貴重品らしいけれど、軍人、それも司令官クラスなら普段遣いにしてもいいぐらい簡単に入手することが出来るらしいその紙に、これも恐らく高いインクと高いペンで書かれたのだろうメッセージには。
「スゥファ・シャズルを預かった。3日後の正午にアーヴェの基地跡にて待つ。人質の身柄に危害は加えない。交換条件はレミゥ・ラングベル、あるいはフィズラク・シャズルの身柄」とだけ、書かれていた。
「なめきってる」
ばーちゃんが怒りもあらわにそう口にした。
「小僧はとうとうそこまで堕ちたか」
じーちゃんも呟いた。
僕とフィズ、そしてレミゥちゃんはただ黙り込んでいた。フィズは最初怒りに任せて強行突入を主張した。それでも、次々と提示される現状の前に、やがて口は重たくなっていった。
何度見ても、不安より先に怒りが沸いてくるような、本当に腹の立つ脅迫状だった。スーの身の安全を然程不安視していないのは、金銭の要求ならまだしも、フィズかレミゥちゃんの身柄というとんでもない交換条件を突きつけておいて、人質を痛めつけたり殺すような真似は無意味に過ぎないからだ。奴らが欲しいのはスーじゃないのだから、本来の目的を手に入れるためにはあらゆる条件を整えてくるだろう。いくらなんでも、スーの遺体と生きているフィズかレミゥちゃんなどという釣り合いの取れない取引をこちらが飲むと思うほど、そこまで馬鹿ではないはずだ。少なくとも、取引が終わるまでは、それなりに大切に扱うはずだし、仮に交換が済んだ場合も殺すことはおそらくありえない。そんなことをすれば、その場でフィズがキレて大暴れするのは間違いないし、この街と軍部が完全対立状態になり、戦争を控えている今、余計な厄介の火種を抱えたがるとも思えないからだ。だいたい、誘拐までしておいて既に十分に火種は燻っている。
レミゥちゃんの身柄は、家の中から一歩も出さないで置こうと決めていた。此処まで追いかけてくるぐらいだ、うっかり外にいたら本当に連れ去られるだろうと。しかしまさか、スーが狙われるほど、連中がそこまで形振り構っていないとは思わなかった。僕らは危機管理の甘さを悔いた。スーは落ち込んでいるレミゥちゃんを喜ばせようと、庭先に咲く花で花冠を作ってあげようとしているところを連れ去られたらしい。レミゥちゃんに直接手を出さなかったのも、彼女の反撃を恐れてのことだったのかもしれない。
ただ、スーの身の安全は大丈夫としても、それがスーのことを心配しない理由にはならない。今スーはどうしているだろうか。あれであの子は利口なので、直ぐに自分の置かれた状況を理解して大人しくしているかもしれないし、パニックを起こして泣いているかもしれない。一番まずいのは脱走を図ることだ。取引さえ成立すれば恐らくは生きて返すつもりである以上、大人しく座っている限り、スーの周りに見られては困るようなものはないだろうが、逃げて走り回れば何かと軍にとって都合の悪いものを目にする可能性がある。そうなれば、安全の保障が消える。
誰がやったものなのかが一目でわかるのに、差出人の名前がない。これもまた、なんとも言えずに腹の立つことだった。
僕らは、少なくとも期限の日まで、スーを救出することは出来ない。全員がそれをわかっていた。
まず第一に、現状でスーが何処に居るのかがまったく見当がついていない。三日後、と指定したからにはその日以外は別の場所に監禁しておくのが賢明なはずだ。城下町やこの街の周辺には、軍の施設が両手の指を折って足りないほどにある。それらは警備も厳重だし、構造も複雑で、第一敵地だ。確実にそこに居るとわかっていれば、危険を冒して突入する価値はあるかもしれないが、闇雲に乗り込んでいってもこちらの被害を拡大させるだけだ。
更に、軍人及び普通の国民がこの街で何かをやらかして捕らえられても国側が口出しできないのと同様に、この街の住人が国側に無実の罪で逮捕されたとしても、それに抗議することは無意味だ。僕らが街の外に出ることそれ自体がリスクが高い。更に、この街に逃げ込んできた人間を国で捕まえて裁判にかける権利がないように、この街で何かをやって逃げたとして、僕らはそれを街の外まで追いかけて捕まえることはできない。この街の人間が国においても幾度もの逮捕歴のあるような輩に誘拐された場合であっても、街の外まで連れ去られてしまえば国の誘拐を禁じる規定で被害者を助けることは出来ないのだ。勿論、この街の人間が追いかけて私刑に処し、リンチを働いたかどで逮捕される前に街に逃げ戻ればそれでなんとかなる、ともいえるが。
スーが既に街の外まで連れ去られていたら、この交渉以外で連れ戻すためにはなるべく早くスーの居場所を特定し、極力国側の人間と接触することなく実力行使で奪還し、全力で街まで逃げてくるしかないのだ。
引渡し場所も、また問題のひとつだった。
アーヴェ基地、と聞いた瞬間、じーちゃんの表情が目に見えて厳しくなった。
「それじゃあ、強行突破は諦めたほうがいいかもしれないねえ」
そう言って、深い深いため息を吐いた。
「あの基地では、魔法が使えないんだよ」
イスクさんが昨日言っていた、建造物内では実用化している魔法封じの結界のことだった。じーちゃんが言うには、件の基地がそれの最初期の実験施設だったらしい。かなり老朽化が進み、それゆえ既に役目を終えて近々解体を待つ施設ではあるらしいが、現在もまだ人の出入りはあるとじーちゃんは言った。
どう考えてもそれは機密情報のような気がして、何故そんなことをじーちゃんが知っているのかはわからなかったが、ばーちゃんはその件については特に何も言わなかった。そしてそれを訊ねるのは今じゃなくていい。
魔法が使えない、というのはあまりにもこちらにとって痛い条件だった。僕らの中に、腕っ節で軍人と真っ向勝負できる人間はいない。それどころか街中探して、肉弾戦で勝てる人材が仮にいたとして、最新の武器を持っている軍人に腕一本で勝てるとは到底思えなかった。
作品名:閉じられた世界の片隅から(2) 作家名:なつきすい