閉じられた世界の片隅から(2)
口に卵が入っているせいで、少しくぐもった声になる。
「昨日は……ありがとね」
「昨日?」
「ほらあの………シフト少将が来たときの」
「ああ」
あの男の名前を出すのが嫌なのか、小さな舌打ちが聞こえた。
「ありがとうって、図ったようなタイミングで寝ちゃったこと?」
僕が絶妙なタイミングで寝付いてしまったために、あの軍人たちは予定よりも早く引き上げたのだろう。あのままであれば議論はいつまでも平行線のまま、玄関に居座られたかもしれないとも思う。
力ずくで追い出してしまう手もないわけではなかったのだろうが、そうすると余計な火種を抱え込むことになるし、第一、フィズやレミゥちゃんの力を把握しているらしいあの男たちが何の対策をしてきていないとも思えなかった。
「あー、確かに、最初一瞬わざとやってるのかと思うほどに図ったようなタイミングだったね」
フィズが小さく笑った。
「でも、そのことじゃないよ。それについては咄嗟に良い台本を考えたものだと自分を誉めたい気分だし」
「あはは、確かにね」
あの場では僕は何もしていない。寝てしまったのだって朝方のフィズの魔法のせいだ。僕がしたのは直ぐにフィズの描いたシナリオを理解し、それに従って寝たふりをすることだけ。足を引っ張ってはいないはずだが、昨日の件は間違いなく脚本家兼主演女優の功績だ。
だとすれば、なんだろう。
暫く考える。
「……あのね」
フィズの声は、静かで穏やかで、僕は正直驚いてしまった。サラダを口に運ぶ手が止まった。
少し柔らかくて、少しだけ緊張したようにも、嬉しそうにも見える、不思議な表情。普段見ることのないフィズの様々な感情の入り混じった複雑な表情に、鼓動が少し速まったような気がする僕は、自分でもわかりやすい奴だと思う。
「あの時、サザが強気に出てくれて、お陰で少し落ち着けたよ。ありがとう」
柘榴石と猫睛石の瞳に、苦笑いをしたような表情が混じった。
「あんな安っぽい……わっかりやすい揺さぶりに乗りかかっちゃった自分が、冷静に考えれば恥ずかしいこと極まりないんだけどね。どうも昔から、あの人は苦手でさ。だけどサザが、物怖じしないで、強気で居てくれて、すごくほっとした」
そこまで話したところで、フィズは僕から少し目を逸らして、笑った。それが僕には、照れ隠しのように思えて、どきりとした。こんなフィズ見たことがない。
――かわいい。
「あー、少し悔しいな、サザのことはずっと、私が守ってあげると思ってたのに」
おどけた様子はなかった。少しだけ寂しそうな、笑顔。喜怒哀楽のはっきりしたフィズは、こんな風な、微妙な表情を見せてくれることは、あまりなかった。その真意を読み取ろうとしても、不慣れなことは上手くいかない。
「なんだか急に頼りがいあるようになっちゃうんだもん、しっかりしちゃってさ。嬉しいけど……少しだけ寂しいかもしれないな」
「え?」
「考えてみれば十六だもんね。どうしても、いつまでも小さい子のような気がしちゃうんだよ。急に手から離れると、その手の置き所がわからないや」
そう言って笑うフィズの手を、僕は思わずぎゅっと掴んでいた。
いつも頭を撫でてくれた手は、僕を守るべき弟として扱う手。僕よりも数歩先を進んで、僕を引っ張ってくれる手。その手は、一度放してしまいたい。その手に甘えている限り、僕はいつまでも、フィズと同じ目線でものを見ることはできないし、その隣に立つことができないから。
そして一度放した手を、もう一度、違う形で繋ぎたい。
「大人になっても、フィズを守れるぐらい強くなっても、僕は絶対、フィズから離れない」
フィズの華奢な手は温かい。この手を、隣に立って繋いでいられるのなら、僕は他に何も望まないのかもしれないなどと、ロマンチストじみた夢想に飲み込まれそうなぐらいに。放したくない。
フィズは口を半分開けて、僕の顔を見ていた。ぽかん、という擬態語がまさしく似合うような表情で。
この気持ちが暴かれるのをこの上なく恐れる僕と、それをフィズの前で曝してしまう僕は、本当に同じ僕なのだろうかだとか、そんなわけのわからないことを頭の何処かで考えている。根っこが同じなのだから、多分同じ僕なのだろう。
「だから、寂しくなんてないから」
そしてふと、僕は今どんな顔をしているのだろうと思った。自分の表情すらわからない。やっぱり、僕はどこか壊れているかもしれない。
暫く、フィズは僕の顔を見つめていた。そして、ふっと柔らかく笑った、気がした。
「……男子って突然雰囲気変わるって、本当なんだなぁ」
「え?」
「なんでもない。なんだか随分しっかりしてきたね、サザ」
そして、また少しの沈黙。それを破ったのも、フィズだった。元々僕は然程喋るほうではないのだから、話し始めはフィズのことが多いのだけれど。
「今だったら、話してもいいかな」
その声が、先程とは又少し違っていて。
「何を?」
そう聞き返した自分の声が、少しだけ上ずっていたような、そんな気がした。
フィズの宝石の双眸から僕が読み取ったのは、僅かな期待と、大きな不安。意を決したように、口を開く。
「私、ずっとサザに嘘吐いてたことがあるの」
どくん、と心臓が大きくひとつ打った。嘘。こんな目をして、告白しようとしている嘘。
一体何があるだろうか、とフィズの話してくれたことが次々と頭の中を流れていく。
「言って、もしサザが離れていったら嫌だな、って思って、ずっと、ずっと、できれば死ぬまで黙ってるつもりだった。でも」
フィズがじっと、僕の目を見た。
「今のサザなら、話しても大丈夫かもしれない」
ずるい。僕は少しそう思った。
フィズが危惧してるだろう僕が離れていく理由があるとすれば二つ。一つ目は、僕が長年嘘をつかれていたという事実に対して怒る可能性。もうひとつは、嘘の内容そのもの。
そして前者の分は、理由にもよるけれど少しだけなら怒っても構わないだろうという気がした。誰であれ、ずっと嘘を吐かれてきて、気分がいいという人はいないと思う。そのことはフィズもわかっているだろうから、話したことで多少なりとも僕が怒るのは十分に悪くない予想の範囲内だろうし、それで決定的に決裂するようなことはありえない。悪い予想があるとすれば、後者の方。
フィズの嘘の内容がわからない以上、驚かない、とは言い切れない。それでも、それが原因でフィズから離れていこうとはきっと思わないと思う。どんな内容だったら流石にフィズから離れようと思うだろうか、といくつかの考えを検討してみたが、そのすべてが不十分だった。
そして、成長を認めてもらって、それによって得た新しい信頼に、応えないわけがない。
それになにより、誰かわからなくても、フィズと僕の関係が思い出せなくても、フィズが僕にとってどれだけ必要な存在かだけは、その姿を見た瞬間に理解できた。
だから、受け止められないはずがない。そう思って、フィズをじっと見た。
「私はね」
そう、フィズが話し出した瞬間瞬間。
診療所の方で足音がした。そして、僕たちを呼ぶ声。まだ、昼休みが終わるには早すぎるのに。
思わず、ドアを振り返った。フィズの目線も同時に動く。
作品名:閉じられた世界の片隅から(2) 作家名:なつきすい