閉じられた世界の片隅から(1)
2. 迷走思考
半年ほど前の事。姉は、当時の彼氏ジェンシオノ氏と別れた。否、姉は、ジェンシオノ氏に振られた。僕が原因で。
ジェンシオノ・クロンソフィ氏は、イスクさんの所属する国立研究所の研究員で、二年ほど前から半年前まで姉が聴講していた講義の教官でもあった。担当は魔法工学である。年齢は見た目からして多分二十代後半から三十歳前後だと思うのだけれど、これがまた、服装から髪型、本人の顔立ち、そして立ち居振る舞いから話し方に至るまで見事に統一して決めた所謂伊達男なのだ。元は貴族の出だったそうだが、家業を継がずに学問に打ち込んだために縁を切られた、らしい。姉の又聞きなので本当のところは知らない。実験中以外は礼服をびしりと着こなし、切れ長の目が印象深い端正な顔立ちに、緩いウェーブの掛かった金髪。貴族の生まれであることが滲み出るようなさりげない振舞い、と、それはそれは、いかにも女性にもてそうな雰囲気を存分に漂わせている人だ。事実、国の上流階級のお嬢さん方の中には、彼に会うこと目当てでよくわかりもしない講義に金の力で潜り込んでいた人も多かったらしく、他の講座に比べて受講生の学問へのモチベーションは低かったようだが、何故か寄付金額と書類上出所不明のお金が多く研究資金だけは矢鱈と豊富なのだとイスクさんから聞いたことがある。ひとり男前がいるだけでそんなにお金やらなにやら色々なものが動くものなのか、女性の情念とは恐ろしい。
そんな、お金を掛けて取り入ろうとし、外見的な意味で自分磨きに精を出し、華やかに着飾った女性たちの中で、この街出身で、実力のみで特待生として受講していた姉とイスクさんは目立つ存在だったようだ。友達は出来なかったようである一方、ライバルと見られてもいなかったし、姉の噂は既に尾鰭だけに留まらず背鰭に加えて胸鰭が付きしまいには脚まで生えて陸上を二足歩行しているような状態だった為、特にいじめられることもなかったらしい。姉は当時から診療所の手伝いをしていて忙しかったこともあり、月に数回講義に参加するのみであったが、イスクさんはやがて実験助手を務めるようになり、現在では研究員見習い、という立場にある。
ジェンシオノ氏はその見目麗しさでもって研究室にお金を呼び込むだけでなく、研究業績にも優れていた。例によって僕にはまったくもって理解できないのだけれど、記録鉱石がここのところ急に安くなったのは、ジェンシオノ氏の開発した技術によるのだという。軍の兵器開発にもかなり深い部分で携わっているようだ。
これらの話のほとんどは、姉から聞いたものだ。姉がそれをあまりにも楽しそうに語るので、僕も一度だけ講義に忍び込んだことがある。
内容がまったくわからないことを予想していたのだが、意外にも多少か、ほんの基礎的な部分はわかった。それは、ジェンシオノ氏目当てでやってくる女性たちのためにある程度基礎的な部分の話もしつつ、姉やイスクさんたちの求めるような高度な内容も取り扱う、という絶妙なバランス感覚ゆえだったのだろう。確かに、内容もわかりやすく、それでいてひけらかしや嫌味にならない程度に、深い知性を醸し出す。話し方も適度に砕けているものの、基本的には上品であり、この街では誰も使わないような丁寧な言葉で話していた。これは、確かにもてるのはわかる。そして、姉が楽しそうに講義のことを話してくれるのも。
それでも、正直僕はジェンシオノ氏があまり好きにはなれなかった。洗練されすぎなほどに洗練された振舞いが、女性を惹き付けるための下心のように思えたからかもしれない。それでも、僕は自分がどうして彼を好ましく思えなかったのか、講義に嬉々として参加する姉の姿が面白くなかったのか、それを自分で把握できてはいなかった。姉が、彼と付き合い始めたのだと言った時にすら、僕はこの気持ちの正体がなんなのかが、わかっていなかったのだ。
ああ、そうか。嫉妬だったのか。そう気づいたのは、姉の泣き声を聞きながらで。引っ叩かれた頬がじんじんと痛かったけれど、そんなことはどうだって良かった。口の中を満たす鉄の味さえ、どうして今でも思い出せるのかがわからないほどに。
本当は、こんな結果を望んだんじゃない。でもその意図はもう、姉にとっても僕にとってもどうだっていいことで、僕の子どもじみた嫌がらせが、女性に対して紳士的に振舞いながらも、やはり研究者らしく神経質な一面を持つジェンシオノ氏にとって非常に鬱陶しいものだった、ただそれだけ。正直に言うと、僕は、姉がジェンシオノ氏を好きじゃなくなってくれればいいと思っていた。姉を取られたくないという、15歳にもなって幼稚極まりない焼餅。故に望んだのは、こんな結末じゃない。姉をこんな風に、泣かせたかったわけじゃなかったのに。
一日、姉は部屋から出てこなかった。それから二日、口を利いてくれなかった。四日目、僕の部屋に乗り込んできた姉は僕の顔を掴み、「忘れなさい、サザ。私も忘れるから」と言って、それから突然、いつもの姉に戻った。僕は暫くどう接していればいいのかがわからないで、姉と微妙に距離を取っていたが、姉があまりにもいつも通りの姉だったので、そのうちに以前のように姉に接するようになっていった。僕から見てひとつ変わった気がしたのは、姉が午後から出掛けることが減ったぐらい。それぐらいしか、わからなくて。
「ごめん、フィズ、本当に、ごめんなさい…」
半年も経ったのに、こんなに傷ついていたなんて、愚かで幼稚な僕は知らなかった。あのとき、言い損ねた謝罪の言葉を伝えようと思うけれど、姉はもうアルコールの影響と泣き疲れとで眠ってしまっている。もう日付も変わったけれど、僕は未だ眠れそうになかった。
先刻姉の為に作った飲み物を、一杯コップに注いで、少し窓の外側に置いて冷やしてから、飲んだ。味見をしておけば良かった。香り付けのエッセンスのバランスが良くなかったのか、それは僅かに苦味がした。
翌朝、僕を叩き起こしたのは姉の悲鳴に近い声だった。
ぼんやりとした意識の中で、姉の顔が目に映る。その顔色は真っ赤だった。熱があるのだろうか。
あのまま、姉のベッドにもたれて寝てしまっていたのか。無理な体勢で眠ったせいか、身体の節々が痛い。寝るのが遅かったこともあり、瞼は鉛のように重い。思考が遠ざかっていく。もう暫く、と思った瞬間、
「サザっ、あんた私に何したのっ!?」
何って、何だろう。頭が回らない。耳に脳味噌がついていかない。あと五分…
「サザ!」
「痛い痛い痛い!!」
思い切り頬を抓られて、急激に目が覚めた。指が離れても、爪の跡が頬に残っている気がする。
「おはよう、どうしたんだよ、朝っぱらから…」
口から出た声は我ながら眠そうで、凡そ明瞭さとは程遠い。徐々に霧が晴れるように鮮明になってきた視界に、真っ赤な顔で僕を睨む姉の柘榴石と猫睛石の瞳が飛び込んでくる。
「なんで私パンツはいてないの!?」
「は?」
「違った、なんであんたが私の部屋で寝てるの!?」
作品名:閉じられた世界の片隅から(1) 作家名:なつきすい