Another Tommorow
ごーんとひとつ、鐘の音が鳴った。除夜の鐘にはまだ早い。近所の寺は毎年、除夜の鐘を希望者に撞かせている。その前に試し鳴らしとデモストレーションを兼ねて、数回余分に鳴らすのだ。正直、ありがたみはあまりない。だけど、試し鳴らしのどうにも気の抜けた音色に、ふっと表情と、このよくわからない緊張のようなものがゆるりと解けた。
「なぁ、大和」
「何?」
「人間の煩悩って、全部消えたらどうなると思う?」
大和は少し考えて、そして淡々と答えた。
「悟りを開くんじゃなかったっけ」
「うん。で、開いたらどうなると思う?」
「……煩悩がなくなるんだよな」、と困ったように言う大和の様子に、飛鳥はくすりと笑った。
「ループしたぞ。や、まぁ悟りはどうでもいいんだけどさ。煩悩って本当になくなったほうがいいのかな、ってちょっと思って」
そう言うと、大和は不思議そうに飛鳥を見た。「でも仏教ではそれが理想ってなってるんだよな?」その言葉を受けて、飛鳥は頷く。
「らしいよな。ホスピス実習のときに、仏典と聖書とコーランは一通り読んだけど」
梅大は旧国立大学であるので、病院にも宗教色はまったくない。入院している患者の信仰はさまざまだ。そして宗教がその人の中で一番大きな意味を持つのは、やはり死を目の前にしたときなのだろう。神や仏を口にする人は多かったし、逆の人も少なくはなかった。
「煩悩ってのは苦しみの元だから、そりゃ、なければすごく楽になれるとは思う。だけど、それがなにもなくなったら、人間、なにもやりたくないしなにもいらないわけだよな」
「そう……いうもんか」
「そういうもんじゃないかな。足りない、と思うものとかなんとかしたい、って思うことがなければ、なにもほしくないしなにもしたくないじゃん。正直、全然想像つかない。死んでからならそのほうがいいかもしれないけど、だけど俺は……なんにも望みがなくなっちまうぐらいだったら、多少しんどいことがあったり、怖かったり、悲しかったり悔しかったりしても、今のままのほうがいい。ま、そうやって完全に無欲になるから、生にも執着なくなるし、死ぬのも怖くなくなる、ってことなんだろうけどさ。でも俺は、やりたいことがまだたくさん残ってるし、きっとこれからもどんどん増えると思う。だから、まだまだ生きたいんだ」
まだ、自分は母のように笑っては死ねない。今死んだならきっと後悔することばかりだ。やりたいことも、やるべきことも、まだなにも終わっていない。
「どうしようもなくなったら、また助けてくれよ。俺も、大和が困った時は絶対に助けるから。無理そうに見えたことでも、なんとかするから。……お前の思う俺のいいところは、助けてって言えることなんだろ?」
ひとりでできることはわずかだ。だけど、自分はひとりぼっちじゃないから。だから、だいたいのことはきっとなんとかできる。
未来がわからないことが希望なのだと、昔から人は言う。だけど、知っていることによって絶望的な未来を変えられる可能性が少しでもあるなら、それもきっと希望なのだ。
完全に固定された、変えられない未来を先に知ってしまうこと、それ以外はだいたい希望なのだなと考えたところで、やっぱり自分には母親の楽天的の血が濃く流れているのだなと思い、飛鳥はまた笑った。煩悩を取り除くはずの鐘の、試し鳴らしの今ひとつありがたみに欠ける音が近くの寺から響いた。年が暮れていく。
それから、季節が一回りした。今年の大晦日も4人でささやかな晩餐を囲んで過ごし、飛鳥はくだらないバラエティ番組を見ながらだらだらと寝正月を堪能し、大和は受験勉強に追われていた。
2月になった。いよいよ明日は国立大入試前期日程の日で、大和は受験会場見学に行く時間も惜しんで自室に篭って勉強を続けている。
就職はとっくに決まり、心配があるとすればどの科に配属されることになるかぐらいの大和は、就職前最後の春休みに入ってからは引越しの準備を進めていた。自分ひとりではない。家族3人分の。今の家を売り、梅山の祖父の家に全員で住むのだ。
結局、祖父は家を貸すのをやめた。祖母と母の気配の残るこの家で最後まで過ごしたいと言って。それで、飛鳥が梅大付属病院に就職したら、勤務のある日を祖父の家で過ごし、休日に実家に帰るような生活にしようかという話になっていた。その頃には大和も、現役合格していれば大学生で弁当はいらなくなるし、サークルで遅くなったときや1限のある日は祖父の家に泊まってもいい。朝食と夕食は休日に飛鳥が数日分作って冷凍しておいて、残りは外食で済ませればなんとかなるだろうし、少しぐらいは父と弟も料理をすればいい。一人暮らしを続けるこの一年は頻繁に飛鳥や大和が学校帰りに立ち寄って様子を見ていた。
それが変わった。父が杉宮に留まらなければならなかった事情が、なくなりかけてきたのだ。父は町役場勤務で、今更転職できるような年齢でもないし、資格も持っていない。退職するまでは杉宮に住むことになるだろうと漠然と誰もが思っていたのだが、数年前の平成の大合併の時にはまともに持ち上がりさえしなかったはずの梅山立城との合併話がここに来て急浮上してきた。
いよいよ財政も行政サービスものっぴきならないところまで来てしまい、最早財政再建団体落ちも冗談では済まなくなってきた杉宮と、市内に新幹線と特急の駅が欲しい梅山立城、両者の思惑が一致したらしい。元々梅山立城は梅山町と立城町の合併で戦後に成立した市だけれど、これに杉宮が合併したら梅山立城杉宮市になるのかという笑い話がここのところあちこちで話題に上りつつある。正直長すぎるのでそれはやめてほしいと飛鳥は思う。今だって十分に大学の名前が長いのに辟易しているのだ。別に梅山立城市の中の杉宮地区、とかでいい。
それはともかく、梅山立城の市役所に合併に関する部署が創設され、父はそこの部署に杉宮の代表として出向することになった。飛鳥は梅大の付属病院勤務になるし、大和が梅大に合格すれば、家族全員の拠点が梅山立城にあることとなる。仮に浪人したとしても、郡内に予備校は梅山立城にしかない。
そもそも祖父が家を貸して老人マンションに移ろうと思ったのは、一度脳梗塞を患ったことのある祖父の一人暮らしを懸念したからで、そして老人の身で交通の便が悪い杉宮の家に住むのはなにかと不便であるからだった。家は元々十分に広く、使っていない部屋は埃を被っているものの、家そのものは4人で暮らすのにはなんの支障もない。3人が同居を申し入れたとき、祖父は本当に喜んでくれて、二つ返事で話は決まった。
予定は変わる。未来は変わる。思いつきもしなかった方向へ。
大和は、高3になる春に志望学部を決めた。それまで、一度も模試の志望校欄に書いたことも、進路指導のときに口にしたこともなかったところへ。大和は、医師を目指している。
理由を尋ねたら、あの火事の時、崩落した洞窟の中で倒れていた飛鳥を助け出し、救急車の中で処置をする姿が格好良かったのだと、表情の読み取りづらい顔に少し嬉しそうな笑みを浮かべて弟は言った。それは医者じゃなくて救急救命士じゃないか……と思ったものの、とりあえず本人が医者になりたいというならそれでいいと思う。
作品名:Another Tommorow 作家名:なつきすい