Another Tommorow
一ヶ月が過ぎた。治療中の母は元気になるどころか日に日に痩せ衰えているように飛鳥には見えた。母は個室だったが、見舞いに行くたびに廊下で出会うほかの入院患者も、一様に同じような痩せ方をしているのが気がかりだった。幼い頃から病院のどの科でもほぼ顔パス状態の母と、その家族である飛鳥たちは顔見知りのスタッフが多いが、彼らは頻繁に母を見舞いに訪れていた。明るく利発な母は子どもの頃から他の入院患者やスタッフたちに可愛がられ、高校生から結婚するまでにかけては院内で告白されたことが何度もあるのだと教えてくれたのは、脳神経外科の岩本先生だった。彼は当時まだ講師だった循環器科の西崎准教授と同期で、ふたりして母に告白して両者とも盛大に玉砕したそうだ。しかもそれをお互いがお互いのことだけ、自分も同じ目に遭った事を伏せた上で飛鳥に話したのだ。結局お互いに知るところとなったようで、その後微妙な苦笑いを向け合うふたりを大和が目撃したらしい。母と仲の良い人たちが次々にやってきては他愛のない話をしていく。母はとても楽しそうで、その笑顔を見るたびに飛鳥はほっとした。
そんな日々が、4ヶ月になろうとした頃。年末年始にかけて、やっと母は一時帰宅できることが決まった。そして母が帰ってくる前日の夜、飛鳥と大和は父から母の病状を聞かされた。母は、末期の胃がんだった。母も、祖父母も、他の医療スタッフたちも、みんな知っていることだった。
母が帰って来た日、飛鳥は初めて、どうしようもない辛いこともなにもかも、心の奥底に押し込めて蓋をして、笑った。母の奇妙な痩せ方が、死期の迫ったガン患者によく見られるそれであったことを知ったのは、5年後の夏休み、緩和ケア病棟ボランティアでのことだった。
酷く、暑い日だった。去年母が倒れた日のような、肌が焼けるような陽射し。あの日は夏休み中だったから大和を連れてプールに行っていた。今日はまだ7月。どんなに暑くとも、クーラーのない教室で一日を過ごし、そして残念なことにプール授業もない。行く道すがらうっかり倒れないように、冷凍庫から氷をたっぷり水筒に放り込んで、ついでに保冷材をリュックサックに入れた。半袖のシャツに体操着のハーフパンツという見た目は間抜けだけれど、校則で許される範囲内で一番涼しい服装を選んで身支度を整えた。一応校則で登下校時の買い食いは禁止されているけれど、帰り道にアイスとお茶を買えるぐらいの小銭は常に財布に入れている。今日はそのほかに、千円札を一枚財布に入れた。帰りに母の見舞いに行くつもりだった。
生きることを諦めたわけではなかった。けれどもう、できることはなにもなかった。腹膜播腫が起きていて、腹腔内にばら撒かれた腫瘍は手術をしても取りきれないことがわかっていた。あらゆる抗がん剤も試しつくした。一度は薬が効いたけれど、あるラインを境に母の身体の中でがんは再び増殖していった。リンパ節への転移も確認された。体力の許す限り様々な治療を試みたけれど、もう限界だった。クロレラだとかプロポリスだとかカバノアナタケだとか、そういう類のものも片っ端から取り寄せた。それでも5月の中頃には、母は緩和ケア病棟に移っていた。
母の顔色は一般病棟にいたころよりも良くなり、骨と皮ばかりになっていた頬も少しはふっくらとして、それを大和は素直に喜んだ。だけど、それが回復傾向にあるからではなく、抗がん剤のつらい副作用から解放され、また積極的なペインケアでガンの痛みが和らいだからであることを、飛鳥は本から得た知識で知っていた。母の病名を知ってから、飛鳥は見舞いの合間に大学の図書館でガンに関する本を読み漁った。数学と化学以外の部分の頭は聡明な母に似てくれたおかげか、多少難しい用語があってもすぐに頭に入った。読めば読むほど、母の病状が絶望的であることを、飛鳥は悟っていった。それでも、どうせもう治らないのなら、辛い治療に耐えて苦しむより、少しでも穏やかな時間を過ごしてほしいとも思った。副作用や痛みで笑えない母を見ることが、なによりも辛かった。
リュックサックを背負う。保冷材のひんやりした触感が心地よかった。家を出る前にとトイレに入っている大和のリュックサックにも保冷材をひとつ入れてやる。大和の小学校までは1.3kmぐらいでそこまで遠くはないけれど、子どものほうが頭の位置が低い分地面の熱で熱射病になりやすい。これも、ついでに読んだ救急手当ての本から得た知識だった。
「兄ちゃんお待たせ」
ちゃんと半ズボンのポケットにハンカチとティッシュを詰め込み、半袖の海賊の絵が描かれたTシャツに名札をきちんと止め、大和が駆け寄ってきた。ややいい加減で忘れ物の多い飛鳥と比べるまでもなく、大和はこの手のことをきちんとやる子どもだ。むしろ大和にとってみれば、名札などというちょっと見ればすぐ忘れたことに気づくようなものさえしょっちゅう忘れる兄のほうがわからないらしい。さすがに中学になり、名札が学生服に縫い付けられてからはそれもなくなったけれど、ハンカチくらいなら今でも持っていかない日のほうが多いぐらいだ。
「行くか」
弟を連れ、玄関から出ようと思った、その瞬間。ぶつりと感覚が途切れた。肌に触れる空気が柔らかな冷たさを孕んでいた。ここは、どこだ。今はいつだ。目の前には母。小さく胸は上下しているけれど、青白いその顔にある瞳は閉じられていて。
「多分、もう清海ちゃんの意識は戻らないと思う」と、母の主治医の声が聞こえた。はっと顔を上げた。幼い頃から母を知っているという壮年医師は悔しそうに、そして、はっきりと悲しみをその目に湛えて、唇をぎゅっと噛み締めていた。一瞬目に飛び込んだ腕時計の日付表示は、今日。時刻は、17時を少し過ぎたところ。
がたん、と膝が床に落ちた痛みで気がついた。
「……兄ちゃん?」
大和が不思議そうにこちらを見ていた。その目に少し心配の色が混じる。「具合悪い?」
飛鳥は首を振った。母が倒れたときのことが大和の頭にあったのかもしれない。直ぐに立ち上がったが、動けなかった。完全に血の気を失った痩せこけた母の顔。呼吸すらままならないのか、顔を覆う酸素マスク。
その場にいるのは、飛鳥ひとり。
どう説明しよう。だけど、考えている時間が惜しい。会いに行かなくちゃ。それだけはわかった。
「大和、学校は休みだ。お母さんのところ行くぞ」
「え」
飛鳥は履きかけた運動靴を脱ぎ、電話台へと向かった。自分と弟の欠席連絡を入れるためだ。
(あとおばあちゃんにも電話しないと!)
押し慣れた番号をプッシュする。繋がるまでの時間すら惜しい。祖母が電話に出るのを待ちながら、自分と弟のクラスの連絡網を棚の中から引っ張り出した。大和も靴を脱ぎ、こちらを困った顔で見ている。コール音が途中で途切れ、受話器越しにテレビの音が薄く聞こえた。
「おばあちゃん、飛鳥だけど」
もしもし、と祖母が言い終わるより先に、飛鳥は言った。勢い込みすぎて、少し舌を噛んだ。
「今日の夕方、お母さんが昏睡状態になるみたいだ。俺今から大和連れて病院行くから、おばあちゃんとおじいちゃんも来てくれる?」
作品名:Another Tommorow 作家名:なつきすい