Another Tommorow
もう一度問われて、浮かんだ答えを言葉にした。答えなければ弟は、いつまででもここに張り付いているだろう。
「疲れたんだ」
意識が一瞬飛んだ。殴られたのだと気づくまで、数秒。一瞬火花が散って滲んだ視界の焦点が戻っていく。目の前の弟は、顔を真っ赤にしてこちらを睨みつけていた。
「最低だ」
声がかすれていた。握り締めた拳も震えている。わかってる、最低だ。弟の前でこんなことを口にしてしまったことが。自分の生き死にに、そんな思いを持ってしまった自分が。弟に、こんな顔をさせてしまった兄が。
「勝手にしろ」と言うなり、大和は早足で部屋を出た。ドアが、バンと音を立てて閉められる。
最後に残った心の中の柱が折れる音を聞いた気がした。こんな兄に、幻滅したのだろうと思う。死を黙って受け入れるなど、あの弟が絶対に許すはずがない。
でも。
疲れた。端的に言ってしまえば、そういうことなのだろう。勿論生きることにではない。どれだけ条件を変えても消えてくれないあの虚無に抗い続ける気力が、もうなかった。死にたくない。でも動きたくない。動けない。
目を閉じた。眠気はなかなか来なかった。
目を覚ました時には9時近くになっていた。一体何時間眠っていたのだろうと思うけれど、時間の割りに疲れが取れた気はしていない。何時に眠りに落ちたのかもわからなかった。それでも、目覚めが訪れたことに安堵した。ほっとした途端、ぐうと音を立てて、腹の虫が盛大に鳴いた。
(こんな状態でも腹は空くんだな)
そんなことを思って、上半身を起こした。昨日以上に動ける気がしなかった。それでも空腹には勝てずになんとかベッドから這い出る。居間では父がひとりテレビを見ていた。元大物プロ野球選手である名物コメンテーターたちが、今週一週間のスポーツに喝を入れている。運動系全般が壊滅的に不得手な飛鳥と違い、父は役場の草野球チームで三塁手で四番の強打者だ。5年ぐらい前には県内の役場対抗親睦野球大会で、守ってはヒット性の当たりをいくつもアウトへと変え、打ってはフェンス直撃の当たりを連発し、見事杉宮町役場チームを優勝へと導きMVPにも選ばれた。その時の賞品はJA提供の梅の実15kgで、当時健在だった祖母と飛鳥が梅干と梅酒作りの作業に追われることになった。尤も、その頃はちょうど平成の大合併の前後で、日頃強豪のチームが合併の推進派と反対派で揉めていたり、合併後の町のチームが旧どちらの町の所属だったかで大荒れになってしまうなどしてチーム内の空気が大変なことになっていた、という事情もあったのだが。父は野球に限らずサッカーも陸上もウインタースポーツも好きだ。今はフィギュアスケートのグランプリシリーズの映像が流れていた。きらびやかな衣装をまとった細身の少女が羽が生えたような身のこなしでくるくると舞っている。父はこの選手がお気に入りで、今年の演目のCDを良く聴いていた。
おはよう、と父に一言かけて台所へと向かう。流しの中には大和の茶碗と皿が残されていた。正直昨日のことで食べてくれていなかったらどうしようと思っていたので少しほっとした。油揚げ入りの味噌汁の鍋を火に掛けて温めなおし、最後の仕上げに三つ葉を散らした。茶碗に食べたいだけよそったご飯は、いつもよりかなり少なめではあった。おかずは昨日のうちに煮つけておいたキンメだ。これも綺麗に一人分だけが鍋に残されている。火に掛けると生姜醤油の甘い匂いが台所にふわりと広がった。薬缶に湯を沸かしてほうじ茶を濃い目で淹れる。少し多めに淹れて、テレビを見ている父にも湯飲みを渡した。
「飛鳥、今日暇か?」
ついでに梅干もご飯に乗せて、のんびり朝食を摂っていると、テレビから視線を外さないまま父が言った。
「特に用はないよ」
「じゃあちょっとおつかいを頼む。洋服を入れるプラスチックのケース、あるだろ。あれ大きいの2つと小さいの3つぐらい買ってきてくれ」
「どこに売ってる?」
「ホームセンターかジャスコあたりに行けばあるんじゃないか」
自宅最寄のホームセンターの位置を脳内地図で検索する。国道沿いにあったはずだ。家からは5キロぐらいでそう遠くはないが、近くに交通機関はない。ジャスコは梅山立城まで行かなくてはならない。駅からは確か歩いて10分ほどの場所なので行けない事はないが、あの大きなケースをいくつも担いで電車の乗り換え移動はかなり厳しい。どちらにしても、車で行くしかないだろう。車で行くとすればホームセンターが近くて便利か。
(あんまり長時間運転したくないし)
免許を取って1年経ち、無事故無違反にも関わらず未だに弟と父は助手席に乗ってくれない。しかし父は父でせっかく運動神経は良いのにやや気の散りやすい性格が災いして、これまでに何度か事故を起こしている。幸いどれも怪我人は本人だけで済んでおり、一応必要に迫られた時に備えて免許は持っているものの、極力運転したくないらしい。飛鳥も父の車に乗った記憶は数えられるほどしかなかった。
「じゃあホームセンター行ってくるよ。何に使うの?」
朝食をいつもより少し時間をかけて平らげ、食器を流しへと運びながら飛鳥は尋ねた。父はやはり振り返らないまま、答えた。
「清海の荷物、整理しようと思って」
「ああ」
母の名前が出て、飛鳥は頷いた。祖母亡き後、高齢で一人暮らしが厳しくなってきた母方の祖父は、介護付のマンションへ引っ越すことに決めていた。それに伴い幼い頃飛鳥も過ごした祖父母の家は借家として貸し出すことにした。数十年に渡り大学の医学部付属病院で看護師として働いた亡き祖母のために家は大学までバス一本で通える場所に建てられていたので、学生たちがルームシェアでもすれば面白いのではないかと祖父は言っていた。それにあわせ、最近父は週末ごとに祖父の家に行き、片付けを手伝っている。今日も昼前には行くのだろう。祖母も母も亡くなり、一人娘の夫である父が今祖父にとって最も頼りになる存在なのだ。
片付けの中で、母が実家に残していた若い頃の服や写真、レコードや本が次々と出てきた。祖父母の家はそれなりに広いため、母が持っていかなかった荷物はそのまま置きっぱなしになっており、それらは結構な量になっていたのだ。マンションへは持っていけないけれど、かといって捨てるのも忍びない。どうせこの家もそれなりに広く、また母が生前自室として使ってた部屋に置けばいいと提案したのは大和だった。母亡き後まともに運転できる人間がこの家にはひとりもおらず、電車とバスでそれらを持って帰るのは難しいため片っ端からダンボールに詰めて自宅へ送っていたのだが、届いた箱が母の部屋にただただ積み上げられている状況はあまり美しいものではない。
母は収集癖や溜め込み癖があり、その荷物の量は残りの家族3人の当時の私物を全部集めてもまだ遠く及ばないほどだったが、同時に整理整頓も大好きであり、それらの大量の物を完璧に収納、整理してなにがどこにあるのかをきちんと把握できていた。今の部屋の状況を見ていると、その母に対してなにか申し訳なさのようなものがこみ上げてくる。
皿洗いを終えて身支度を整えた後、父の財布から樋口一葉と少し迷って念のため福沢諭吉を一枚抜き取り、財布に入れた。
作品名:Another Tommorow 作家名:なつきすい